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-律人-ビルマの5日間⑨

皮肉を込めて律人が言うと、弓弦は少しの沈黙の後、やがて声を震わせた。 「それでも……生きて帰ってあげて欲しい……。 僕には妻はいないから、奥様の気持ちは想像できかねるけど…… 少なくともご両親やお兄様は、春木さんの帰りを心待ちにしていると思う」 「……そうだな。 俺もまあ、こんな所縁のない土地で死ぬよりは、生きて帰って日本の飯を食べたいとは思うよ」 律人は、いつのまにか自分のことを話し過ぎてしまったことを後悔した。 妻との関係がうまく行っていないことだけでなく、女に欲情できないことまで曝け出すつもりはなかった。 しかし弓弦が真剣な瞳を向けて傾聴してくれるがために、ついつい心が緩んでしまったのだろうと律人は自己分析をした。 「——秋庭も、五日間だけとはいえ、日本で両親と姉上が帰りを待っているんだろうな」 律人は話題を弓弦の方へ移した。 すると弓弦は無言になってしまった。 話しにくいことだったか。 まさか秋庭も、家族とはあまりうまくいっていないのか……? 律人が不安に思っていると、弓弦はやがて何かを決意したように話し始めた。 「一つ謝らなければならないことがあります」 「え?」 「先日、家族の話をした時、あたかも皆健在であるような前提で話をしたけれど—— 実は母と姉は、もうこの世にはいないんです」 弓弦は長い睫毛を伏せた。 「去年、日本でたちの悪い病が流行し……母と姉は相次いで病に伏せ、そのまま亡くなった。 だから日本に帰っても、家に居るのは父一人だけなんです、本当は」 「それは……言いにくいことを言わせてしまってすまない」 律人が謝ると、弓弦は即座にかぶりを振った。 「僕が紛らわしい話し方をしていたのがいけないんです。 僕が——まだ二人の死を受け入れられずにいて、過去の人のように言いたくなかったから。 二人が生きていてくれたら、という願いが滲み出た話し方をしてしまった」 弓弦はそれから、母と姉のことを詳しく話してくれた。 「前に話したように、うちは音楽一家で、みんな楽器が得意でした。 特に母はピアノ、姉はバイオリンに秀でていて、二人でよくセッションを楽しんでいた」 セッションとは、複数人が複数の楽器で同じ曲を演奏することだと弓弦は付け足した。 「二人がセッションを始めたら、僕は自分の練習そっちのけで演奏に聴き入っていました。 母が奏でる軽やかで柔らかいピアノと、姉が奏でる華やかで伸びの良いバイオリンの音色が合わさると、この世ではないどこかに飛び立っていけるような、幸せな音の空間が出来上がって——僕は二人が楽器を奏でているのを聴くのが、本当に大好きでした」 弓弦はバイオリンの入ったケースを指でなぞりながら続けた。 「特に二人が好んでセッションしていた曲目が『アヴェ・マリア』だった」 「!……そうだったのか」 律人が息を呑むと、弓弦は目を細めて言った。 「あなたがこの曲を気に入ってくれて、僕は嬉しかったです」 そしてこう続けた。 「僕は軍楽隊でクラリネットをやっていたから、バイオリンにはほとんど触れたことすらなかったんです。 姉のような優れた演奏をできるとは思っていなかったし、 どうせならば母や姉とは違う楽器を出来る方が、セッションに混ざれるとも思ったし。 ——父から、『お前は遊びのような真似事で時間を浪費するな』と言われて、結局は混ざれなかったけども」 弓弦は過去を振り返りながら、淡々と、しかし噛み締めるように言葉を紡いでいった。 「……母と姉が死んだ後、僕は姉のバイオリンを譲り受け、密かに練習を重ねました。 姉が弾いていた『アヴェ・マリア』を、どうしても再現したかったから。 一年前までは確かに存在した、母や姉との幸せな時間を忘れたくなくて—— 僕が姉の演奏を引き継いでいきたいと願って、この一年、この曲ばかりを練習してきた」 だからバイオリンで演奏できるのは実はこの一曲のみなのだ、と弓弦は語った。 「……だからこの音楽をやりたかったんだな、秋庭は」 「——『弓弦』でいいですよ」 「ならば、弓弦。俺のことも律人と呼んでくれ」 「わかった、律人。 ……僕のいきさつは大体こんなところです。 なんの面白みもない話を延々と——退屈させてしまいましたよね」 弓弦が言うと、律人は「そんなことない」とすぐに返した。 「弓弦のことが知れて良かったよ。 ——アヴェ・マリアをバイオリンで弾いてた理由も……教えてくれてありがとう」 「こちらこそ、アヴェ・マリアを好きになってくれてありがとうございます。 僕の思い出を人と共有できたことで、僕の心が少し軽くなりました」

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