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-律人-ビルマの5日間⑪
弓弦の吐息がすぐ後ろから律人の耳元にかかる。
思わずぞくり、と身体を震わせると、弓弦はパッと離れた。
「すみません、近過ぎましたね」
「いや……。そのお陰で力加減がよく理解できている。このまま続けてくれ」
律人がそう言うと、弓弦は少し遠慮がちに、再び律人の手を取った。
「それじゃ、上から下、下から上のストロークを連続してみてください。
一律で音を鳴らせるようになったら、バイオリンを弾けるようになったといっても過言ではありません」
それを聞き、律人は張り切って弓を上下に動かしてみた。
だが、思ったように滑らかな音が出ない。
上から下にストロークする時には力がかかり過ぎて掠れたような音になり、
返しのストロークでは弓が弦に引っかかってぷつぷつと途切れたような音になる。
弓を上下に動かすだけの単純な動作に見えていたが、一定した音を出すのがこれほどまでに難しいものなのか、と律人は実感した。
「難しいな……」
「楽器は一日二日で演奏できるようなものではありませんから。
誰であっても、それなりに練習を積んでようやく弾けるようになるものです。
僕もそうでした」
「俺も練習すればいずれ弾けるようになるってことか」
「もちろん」
——夜も更けてきたため、律人がバイオリンを弓弦に返すと、弓弦はバイオリンを手入れしてケースに戻していった。
「!弓……そんな風になっていたのか」
弓弦が弓の根本のねじを捻っていくと、ピンと張っていた弓が緩み、白く細い線の束に変化した。
「弦に直接当てる方の面は、馬の尻尾の毛で出来ているんですよ」
「馬の毛!?……知らなかった。
でも、どうしてわざわざ緩めてからしまう必要があるんだ?」
「うーん……そういうものだと教わったから、なんでかと言われると、僕も詳しくはわからないな……。
——人と同じで、ずっと張り詰めたままだと疲れてしまうからじゃないでしょうか?」
それを聞いた律人は、思わずプッと噴き出した。
「ははっ……!弓弦も冗談を言うんだな」
「言いますよ?」
「アンタと会うたびに、どんどん新しい面を知っていってる気がするよ」
五日間だけの滞在というのが惜しく思える——
律人はそんな本音を押し込んだ。
「実際、人は張り詰めたままだと疲れてしまうのは事実だよな」
「そうですよ。
こんな戦地で、もう何年も過ごしてこられた駐屯兵のみなさんには、本当に頭が下がる思いです」
「弓弦の頭が下がってどうするんだよ。
俺は御国のために戦っているのだから、俺に感謝すべきは大日本帝国だ」
「……ふふ、そうですね」
弓弦は笑みを見せた。
「——それにしても、ここは本当に暑い。
夜だというのに、気温が一向に下がらないのですね」
帰りがけ、弓弦はふいに言った。
「そうなんだよ。
こんな暑い軍服なんて着てられるか!って思うことが何度あったか」
律人は襟元を引っ張り、パタパタと中に風を送りながら返した。
「暑いのは苦手か?」
「……日本の夏は嫌いじゃないんですけどね。
ここの日中の暑さは結構厳しいな。
軍楽隊で演奏をしている間は正直しんどかったです」
「確かに、暑い中で吹奏楽器を吹いていたらあっという間に酸欠になりそうだ。
ええと……クラリネットと言ったか」
「はい。それに人だけでなく、楽器も高音には弱いから大変なんですよ。
クラリネットは息を吹き込むところにリードという、薄い木の板をセットするのですが
気温や湿気で痛むと音の出方に影響するから、こまめにメンテナンスをしてあげないといけなくて」
そんな会話を交わしていた流れで、律人がこう言った。
「機会があれば、クラリネットの吹き方も教えてもらいたいものだな」
すると弓弦は、少しの間の後、どこか照れ臭そうに笑った。
「いいけれど……、吹奏楽器だから、口をつけたところを共有することになりますよ。
それが嫌でなければ、になるかと」
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