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-ガク-軟禁⑥
イオリは息を呑んだ。
「……ここで……?」
「ここでしたい。
——それから、イオリに一つ言いたいんだけど」
ガクは目元に溜まっていた雫を拭うと、イオリの目をしっかりと見据えた。
「初めての経験って、特別なものだよな。
ファーストキスは、確かにロマンチックで思い出に残るものだったら最高だよな。
——でもさ、人って生きていれば経験を重ねていくものじゃん。
毎日新しい一日が始まって、毎日新しい記憶を積み重ねて。
そうやって、初めての出来事の上に、いくつも記憶が積み重なっていく——
だから俺は、たった一度きりのスペシャルな初めてより、ちょっとスペシャルな沢山を積み重ねていける方が幸せだって思うんだよ」
「……ガクさん……」
イオリの瞳が揺れている。
「俺とのキス、一度きりなんてこと、絶対ない」
「っ!」
「これから何度も何度も、イオリと俺はキスする。
——そういう関係になったでしょ?」
「……」
「これから先何度目でも、イオリが特別な気持ちになれるように努力するよ。
だから今ここで、俺がイオリのことを少しでも幸せにできる切り札を使わせて欲しい。
イオリにとってこの空間が、バイオリンだけのものじゃなくなるように上書きしたいから」
——イオリは静かに目を閉じた。
「目、開けてて」
ガクの声が刺さり、イオリはパッと瞼を見開いた。
瞬間、イオリの視界すべてがガクで埋め尽くされる。
唇にあたる感触。
髪の毛から漂うシャンプーの香り。
瞳のすぐ先にある、真っ直ぐな視線。
僅かに感じる、心臓の鼓動。
感じるものすべて、ガクのもので満たされていく。
イオリは瞳を開けたまま、ガクの瞳を見つめていた。
言葉を交わさなくても、ガクの思いが流れ込んでくる。
それは今まで誰かに貰ったことがないくらいの、熱くて強くて大きな想い——
「……足りない……」
ガクの唇が離れていった時、イオリが呟くように言った。
「初めてが一回じゃ足りない。
全然、足りない——」
二人はどちらともなく、再び唇を重ね合った。
なんて心地良いんだろう。
ここが生まれてからの20年近く、自分を縛り、苦しめてきた場所だということを
イオリはこの瞬間忘れていた。
「……っ、もっと……」
「ん……」
「もっと……したい……」
唇が離れるたびに、何度もせがむイオリの背中に、ガクは腕を回した。
今度は『バイオリニストの腕』ということは忘れ、強く抱きしめた。
細い身体が折れてしまうのではないかと思うくらいに。
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