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-ガク-軟禁⑦
「イオリ——俺んちに来ない?」
ガクは囁くように言った。
「生活面は、贅沢させてあげられないけど。
でもイオリが食べたい時に食べて、寝たい時に寝ていい。
バイオリンの練習なんて、しなくていい」
「……」
「それから、毎日キスしよ」
「……それは、魅力的ですね」
イオリはバイオリンのケースにそっと視線を落とした。
「——これと離れる生活を送ったことがないので、どんな暮らしが待っているのか想像できないですけれど」
「バイオリンも連れて来る?」
「……」
イオリはイオリの腕から離れると、バイオリンのケースにそっと触れた。
「——嫌い、です。
僕はバイオリンを——いや——バイオリンの練習を強いてくる両親と、バイオリンと歩む人生から抜け出せない自分自身のことが嫌い……なんだ」
イオリは自分に言い聞かせるかのように告げた。
「……この楽器自体に罪はない。
嫌いなのは、バイオリンそのものじゃない——でも」
イオリはケースを壁に寄せると、
「置いて行きます」
と口にした。
「——もうすぐ三時なので、気付かれる前に家を出ないと」
イオリとガクは、イオリの自室に戻った。
スマホは父親の書斎にあるため、財布や身の回りのもの最低限を鞄に詰め込むと、二人は窓から身体を降ろして家の外へと脱出した。
「——こんな夜中に外へ出るの、初めてだ……」
イオリが少し緊張した表情で空を見上げる。
「それで……ガクさんの家まで、どうやって向かいましょう?」
「まだ始発動いてないもんなー。
えーと、清澄白河から調布っと……」
ガクはマップアプリを開くと、
「徒歩6時間!」
と、元気よくマップアプリの経路を見せた。
「5時になったら始発が動くから、線路沿いを歩いて行って、そこからは電車に乗ればいいよ。
とりあえずこの辺に留まってると、イオリの家族に見つかる恐れがあるし、ちょっとでも歩いて距離を取ろう」
「そうですね」
「始発までの2時間、歩けそう?
いつでも休憩していいから」
「歩きます」
イオリは力強く宣言し、歩き始めた。
ほとんど勢いだった。
ガクの提案も、おそらくイオリの二つ返事も。
この地獄のような家から救ってあげたい。
地獄のような生活から抜け出したい。
ガクは自分の提案を受け入れてくれると思っていなかったし、イオリはそんな提案をしてもらえるとは思ってもいなかった。
そして朝や昼の冴えた頭で考えれば、そんな生活を長く送れるはずがないと、冷静に未来を見据えることができたはずだ。
——けれど、今の二人は最高に気持ちが良かった。
人の歩いていない真っ暗な東京の街を、まるで自分たち二人がジャックしたかのように、堂々と歩く。
真夏の夜の風が心地良い。
隅田川にかかる橋を通りながら、遠くに見えるスカイツリーを見て話す。
イオリはスカイツリーにまだ登ったことがないらしい。
ガクも同じだった。
それから日本橋を歩き、イオリの高級そうな服はこの辺のデパートでなら買えるのか、と訊ねる。
イオリは、母親が買ってきた服しか身につけたことがないと答えた。
ガクは、今度ユニクロでラフなTシャツでも買おうか、都落ちしたわけだし、と笑った。
東京駅に差し掛かると、新幹線って人生で何回乗ったことがある?と話した。
イオリは案外、多かった。
バイオリンの地方公演や、他校との交流演奏会などで遠征する機会がそれなりにあったらしい。
皇居の外周を歩きながら、こんな広い敷地に住んでいる人がいるんだよなあとガクがぼやく。
イオリの家も充分過ぎるほど広いが、一人暮らしのアパートの狭さを見たらイオリは泡を吹いて倒れるんじゃないかとガクが心配すると、イオリはくすくすと笑った。
四谷まで歩いてくる頃には、外の暗がりがずいぶんと見えるようになっていた。
夏の朝は早いね、と話しながら、互いに顔を見合わせると、たまらずキスをした。
これから先、始まる自由と不安。
心配事は山のようにある。
けれど、互いの存在があれば幸せだと——
それぞれが自分たちに言い聞かせるように、瞼を閉じて唇を重ねた。
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