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-ガク-夏の逃避行②
「なんか、ガク先生、嬉しそう」
——月島家で勉強を教えていると、翼がそう口にした。
「あ、俺ニヤついてた?いま」
「ニヤついてました、すっごく」
翼はシャーペンを置くと、ぐっと伸びをした。
「はぁ〜……。
高校最後の夏なのに、勉強勉強で全然出かけらんないなぁ」
「まあまあ。大学生になってから、存分に遊べるから!」
「先生は存分に遊んでるんですか?」
「……バイト三昧です」
ガクは神妙な面持ちになると、翼をじっと見た。
「よく聞くんだ、翼さん。
おうちの人とは仲良くしておいた方が良いよ。
じゃないと俺みたいに仕送りが家賃光熱費だけにケチられて、食費と交際費を稼ぐためにバイト漬けの大学生活を送ることになるのだから」
すると翼は、ガクの真面目ぶった言い方に笑いながら、こう返した。
「あははっ……。
でも、私は大学に入ってからも実家暮らしの予定なんで、そこは心配してないかな。
電通大もですけど、滑り止めで受ける予定のとこ、全部通える範囲の大学にしてるので」
「都内に実家がある人間の強みだよなあ」
ガクは心底羨ましそうに翼を見た。
でもイオリのように、都内の豪邸に住んでいても、自由のない暮らしを送っている人も居る訳だけど……
「でもホントは一人暮らしにも憧れるんですよね。
ママ、勉強しろ勉強しろって口煩いし」
「翼さんを思って言ってくれてるんだから、あまり煙たがっちゃダメだよ」
「ん〜……。そうですね、確かに私の将来を思ってではあるのか……。
でもなぁ〜、毎日顔を合わせて言われるとなぁ……」
翼がぼやく間にも、ガクは再びイオリのことを考えた。
イオリの両親の厳しさは、愛情というより支配にベクトルが向いている気がする。
毎日バイオリン漬けの日々を送らせているのも、体罰も、イオリのためにしていることとは思えない。
俺が……守ってあげなきゃ……!
「——ガク先生、聞いてます?」
張りのある声がし、ガクは我に返った。
「えっ?ああ、聞いてたよ。いや聞いてなかった」
「そーですか。で、ヒロトくんなんですけど」
「どこからヒロトくんの話になった?」
ガクが頭をぐるぐるさせていると、翼が嬉しそうに『ヒロトくんのぬい』を見せて来た。
「じゃーん。友達がぬいの衣装を縫ってくれたの!
うちの高校の男子の制服!」
確かにヒロトくんのぬいぐるみが身に付けているのは、いつのまにやらミニサイズの学ランになっていた。
「親友が裁縫得意で。
ヒロトくんにうちの高校の制服着せたら、同じ学校に通ってる妄想が捗るでしょ?って、徹夜で手作りしてくれたんです!」
「その子、受験大丈夫そ?」
「彼女は服飾科の専門に進む予定なので、これもバリバリ実技の練習ですよ!」
「大丈夫そうね」
ガクはじっとぬいの衣装を見た。
綻びは一つもないが、縫い目が微妙に均等ではないことから、手縫いで仕上げたものだとわかる。
なるほど、趣味というレベルを超えた出来栄えだ。
「お友達、めっちゃ裁縫レベル高いね」
「でしょ!私も親友なら服飾の世界で活躍できると信じて応援してるんです。
一緒に受験勉強できないのはちょっと寂しいけれど」
「翼ちゃんの高校って、全員が進学する訳じゃないんだね」
「そうですねえ……。私は特進コースなので、クラスメイトも受験を控えている人がほとんどですけど
親友や大半の生徒がいる総合コースの人たちは、就職したり専門に行く子が多いって聞いてます」
「なるほど、クラス毎にコースがあるんだね」
「先生の通ってた高校はどうでした?」
「うちは進学校で、生徒の大半が大学に進んだよ。
コースも文理で分かれてたくらいで、ご存知の通り、俺は理系を極めてたわけ」
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