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-ガク-夏の逃避行③
「あははっ、確かにガク先生は物理のエキスパートですもんね」
「そうそう。そしてエキスパートから学んでいる翼さんもまた、未来の電通を背負う物理博士になるわけ」
「なれるかなあ」
「なれるよ」
ガクが力強く頷いてみせると、翼はちょっぴり照れた後、おずおずと訊ねた。
「あの、先生。もしかしてなんですけど……」
「うん?」
「彼女……できちゃいました?」
翼に言われて、ガクはぎくりと肩を揺らした。
そうだ。
この子には告白めいたことを言われて、それに対してうんともすんとも返事をしていなかった……
でも今すぐ付き合って、と言われた訳でもないから、どうやっていなそうかと考えているうちに時間が経ってたんだな……
「……さっきニヤついてたせい?」
「あ、ビンゴなんだ」
「んん……彼女……というか……」
彼『女』ではないけど——
彼氏、なのか?
男同士で付き合ってるのって、なんて表現するのが正解なんだろ。
「まあ……大事にしたい人は……できたよ」
「あー……やっぱり、そうなんですね」
翼は少しがっかりしたように言った。
「でも、そうですよね。先生、ビジュ強だし。モテそうな性格してるし」
「ビジュアルは知らんけど、チャラそうとは言われた」
「ええーっ?全然チャラくないですよ、ガク先生!」
翼はぶんぶんと首を横に振った。
「だって私がアピールしても、全然靡いてくれないし!
カラオケ行った時だって……
自宅以外の密室で近づくのはよろしくないからって、テーブル挟んだ席に座ったじゃないですか」
「まあそれはね、先生と生徒だからね。
節度を持って接しないと」
「あとカラオケでの選曲も、全然チャラくなかった!」
「逆にチャラい曲ってなに。
ヒップホップとか?ラップとか?」
「違う違う。
女子ウケしそうなヤツですよ!LDH系とかK-POP!
これを歌えば女子がキュンとする!ってネットニュースに書かれてそうなもの」
「なるほど?」
「でもガク先生、私が知らないような古いアニソンとかばっかり歌ってたから、
『あ、これ脈ないんだな』って分からせられたんですよ」
「古い……?いや、俺の中では最新の知識を注ぎ込んだつもりだったんだけど」
ガクがショックを受けていると、翼は明るく笑った。
「なーんだあ。
てっきり先生、私に気を持たせないよう、あえて笑いを取りに来てるんだと思いました」
「真剣に歌ったのに心外だな」
「でも、そういう先生の言動一つ一つを見ていて、真面目な人なんだなって思ったんです」
翼はそう言うと、少し寂しそうな笑みを浮かべた。
「だからきっと、大事な人がいるなら、他の女の子は付け入る隙がないってことですよね。
——私、先生のこと……諦めます」
静かな声で言うと、翼は机に向き直った。
再びシャーペンを持ち直し、黙々と問題を解いていく横顔を見て、ガクは思った。
違うよ、翼さん。
俺が誠意のある人間だったら、翼さんからアプローチされた後、すぐに『その気はない』と言い切ったと思う。
自分から拒絶することで翼さんから嫌われて、今後家庭教師の仕事が無くなったらどうしようと、保身に走ったんだ。
——今まで数回だけデートした子達もそうだった。
サークルやバイト先の人と繋がっていたりすることがあるから、築き上げて来たコミュニティでの人間関係が壊れるのが嫌で、
その気がなくても誘いに応じたり、楽しそうに振る舞ったりしていた。
でもずっとそれを続けるのもしんどくて、程よいところで距離を取り始めて。
そんな浮ついた人付き合いをしてきたせいで、イオリにも距離の詰め方を間違えて、怯えさせてしまった。
でも。真摯に向き合ってくれた相手には、真摯に返すのが筋だろ——
「ありがとう。ごめんね。
俺……大事にしたい一人を、大事にするから。
翼さんも、翼さんだけを大事にしてくれる人と出会えることを願ってるよ」
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