80 / 200

-ガク-夏の逃避行③

「あははっ、確かにガク先生は物理のエキスパートですもんね」 「そうそう。そしてエキスパートから学んでいる翼さんもまた、未来の電通を背負う物理博士になるわけ」 「なれるかなあ」 「なれるよ」 ガクが力強く頷いてみせると、翼はちょっぴり照れた後、おずおずと訊ねた。 「あの、先生。もしかしてなんですけど……」 「うん?」 「彼女……できちゃいました?」 翼に言われて、ガクはぎくりと肩を揺らした。 そうだ。 この子には告白めいたことを言われて、それに対してうんともすんとも返事をしていなかった…… でも今すぐ付き合って、と言われた訳でもないから、どうやっていなそうかと考えているうちに時間が経ってたんだな…… 「……さっきニヤついてたせい?」 「あ、ビンゴなんだ」 「んん……彼女……というか……」 彼『女』ではないけど—— 彼氏、なのか? 男同士で付き合ってるのって、なんて表現するのが正解なんだろ。 「まあ……大事にしたい人は……できたよ」 「あー……やっぱり、そうなんですね」 翼は少しがっかりしたように言った。 「でも、そうですよね。先生、ビジュ強だし。モテそうな性格してるし」 「ビジュアルは知らんけど、チャラそうとは言われた」 「ええーっ?全然チャラくないですよ、ガク先生!」 翼はぶんぶんと首を横に振った。 「だって私がアピールしても、全然靡いてくれないし! カラオケ行った時だって…… 自宅以外の密室で近づくのはよろしくないからって、テーブル挟んだ席に座ったじゃないですか」 「まあそれはね、先生と生徒だからね。 節度を持って接しないと」 「あとカラオケでの選曲も、全然チャラくなかった!」 「逆にチャラい曲ってなに。 ヒップホップとか?ラップとか?」 「違う違う。 女子ウケしそうなヤツですよ!LDH系とかK-POP! これを歌えば女子がキュンとする!ってネットニュースに書かれてそうなもの」 「なるほど?」 「でもガク先生、私が知らないような古いアニソンとかばっかり歌ってたから、 『あ、これ脈ないんだな』って分からせられたんですよ」 「古い……?いや、俺の中では最新の知識を注ぎ込んだつもりだったんだけど」 ガクがショックを受けていると、翼は明るく笑った。 「なーんだあ。 てっきり先生、私に気を持たせないよう、あえて笑いを取りに来てるんだと思いました」 「真剣に歌ったのに心外だな」 「でも、そういう先生の言動一つ一つを見ていて、真面目な人なんだなって思ったんです」 翼はそう言うと、少し寂しそうな笑みを浮かべた。 「だからきっと、大事な人がいるなら、他の女の子は付け入る隙がないってことですよね。 ——私、先生のこと……諦めます」 静かな声で言うと、翼は机に向き直った。 再びシャーペンを持ち直し、黙々と問題を解いていく横顔を見て、ガクは思った。 違うよ、翼さん。 俺が誠意のある人間だったら、翼さんからアプローチされた後、すぐに『その気はない』と言い切ったと思う。 自分から拒絶することで翼さんから嫌われて、今後家庭教師の仕事が無くなったらどうしようと、保身に走ったんだ。 ——今まで数回だけデートした子達もそうだった。 サークルやバイト先の人と繋がっていたりすることがあるから、築き上げて来たコミュニティでの人間関係が壊れるのが嫌で、 その気がなくても誘いに応じたり、楽しそうに振る舞ったりしていた。 でもずっとそれを続けるのもしんどくて、程よいところで距離を取り始めて。 そんな浮ついた人付き合いをしてきたせいで、イオリにも距離の詰め方を間違えて、怯えさせてしまった。 でも。真摯に向き合ってくれた相手には、真摯に返すのが筋だろ—— 「ありがとう。ごめんね。 俺……大事にしたい一人を、大事にするから。 翼さんも、翼さんだけを大事にしてくれる人と出会えることを願ってるよ」

ともだちにシェアしよう!