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-ガク-夏の逃避行⑨

ガクは、横向きで寝ているイオリの身体を背中側から抱き締めた。 イオリは暫くの間、大人しく腕の中に収まっていた。 安心できただろうか、とガクが思っていると、イオリがぽつりと溢した。 「……逆に眠れなくなってきました」 「俺がそばにいても不安?」 「不安ではありません、が……心臓がざわつきます」 「ドキドキしてるってこと?」 「……そうなのかもしれません」 ガクは唇の端を上げると、イオリの身体をより力を込めて抱き締めた。 「っ……!?」 「もっとドキドキさせたいなぁ〜」 「充分してますよ……」 「じゃあこの流れでキスできないかなぁ〜」 「……そんなに気楽にするものなんですか?キスって」 「したい時にするものでは?」 「……ガクさんって……キスする相手に困らない人生を送って来たんですね」 「いやいや、大学入ってからずっと独り身だったって言ったじゃん」 「僕の人生には一度もできませんでしたよ、キスする相手」 「でも、今は俺がいるよね」 ガクはイオリの耳元で囁いた。 「こっち向いてよ、イオリ」 イオリが身体を捩らせ、ガクの方へ身体を向けると、ガクはイオリの唇をすぐに塞いだ。 「んっ」 イオリから反射的に声が漏れる。 ガクが、唇を重ねたり、僅かに離したりを繰り返しながら口付けていると、イオリが溢した。 「……怖い……」 「え……?」 「こんな——こんな風に、誰かと寄り添って寝るのも、抱き合っているのも、キスするのも—— 今までの人生で経験したことがなかったことが、ここ最近で一気に起きていて……怖い。 それに、心は驚いているのに、身体は自然にガクさんを受け入れてしまっていることも……」 「——俺もびっくりしてるよ。 イオリと会った瞬間から好きだったのに、イオリと過ごす時間が増えていくたびに、もっともっと好きになっていってる。 自分がこんな気持ちになっているのが、ちょっと怖いなって思う。でも——」 ガクは唇を離すと、暗がりの中でイオリと目を合わせた。 「間違いなく、今すっごい幸せ」 「……同じ、ですね」 「ね。ガクって呼んでみてよ」 「……がく……」 イオリが「さん」を付けずに言い切ると、ガクはイオリに再び口付けて微笑んだ。 「うん。そっちの方が嬉しい」 「……ガク……が喜んでくれるなら…… ガクって呼ぶ——努力はします」 二人はその晩、数え切れないくらいのキスをした。 どちらかから唇を離すと、たまらずもう片方の唇が追いかけてくる。 きっと、こんな風に夢中になっていることも、夜が明けるまでキスすることも、時が経てば落ち着いていくのだろう。 ガクはイオリの唇を迎えながら思った。 でもそれも悪いことじゃない。 二人の関係が成熟して、大人になって、次のステップを歩んでいく—— そんな未来が待ち遠しいとさえ思う。 前世で叶えられなかった、好きな人と送る日常を、これから叶えていくんだ。

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