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-ガク-夏の逃避行⑩
——翌日。
外が白み始めるまでキスを繰り返していた二人は、揃って昼近くに目を覚ました。
「はよー」
「おはようございます」
「昨日のカレーの残りでさあ、ドライカレー作ろうかなって。
イオリも食うよな?」
「いただきます」
イオリの前にドライカレーの皿が置かれる。
「美味しい」
イオリは食べ進めながら、懸念するように言った。
「昼と夜の二回も食事を取ること——それにこんなお皿に山盛りのご飯を食べることも
これまであまり経験してこなかったので、太らないか心配になってきました」
「えー太ればいいじゃん」
「いいんですか?」
「うん。イオリなら何でも良いよ」
ガクはイオリがころころとした姿になるのを想像し、にんまりとした笑みを浮かべた。
「何か想像しました?」
「した。まんまるのイオリも可愛いだろうなって」
「……でも。顎に肉がつくと、バイオリンを上手く挟めなくなりそうなので気をつけないと——」
イオリはそう言って、僅かに目を見開いた。
「家に置いてきたのに——無意識にバイオリンを弾く時のことを懸念してしまっていました」
「持ってこなかったの後悔してる?」
「いえ……。
どのみち、大学の練習室や自宅の防音室でないと、楽器は弾けないですよ。
近隣のご迷惑になると思いますし」
「でもさ」
ガクはカレーをスプーンで掬いながら言った。
「イオリの弾くバイオリンの音なら、逆に聴こえた人からお金もらってもいいくらいじゃんね?」
「そんな恐喝まがいな……」
「俺はあの藝大でのコンサートのチケット、払って良かったと思ってるよ。
人生観が変わるんじゃないかってくらい衝撃を受けて——イオリの演奏を聴いて全身がビリビリ震えたもん。
あんな経験、人生でそう得られないことだとも思った」
するとイオリは「そんなに?」と言って笑った。
「聴くのは二回目だったじゃないですか、僕の演奏してるところ」
「告別式な。でもアヴェ・マリアは、聴いた瞬間に前世の記憶がブワーッと思い出されて、それどころじゃなかったんだ。
初老まで生きた人間の人生史、一生分が一気に流れ込んでくるなんて、頭の中を処理するので精一杯だったんだから」
「……今でこそ、その話が嘘や冗談で言ってるわけじゃないというのは理解しているつもりです。
でも——僕にはその記憶を思い出せない。
なにか、音楽以外にトリガーがあるのでしょうか……」
「う〜ん」
二人で首を捻って暫く考える。
しかしガクにも分からなかった。
弓弦の人生史のほとんどは、律人とは過ごしていない時間で構成されている。
律人は弓弦と死に別れたあとも、独学でバイオリンを練習し、アヴェ・マリアを弾けるまでになった。
律人にとっては、弓弦と出会った後の方が人生が長く続いていった。
そして弓弦のことを思いながらバイオリンを奏でる余生を過ごしたため、人生に占める弓弦の存在はとてつもなく大きいものだった。
一方の弓弦は、律人という存在に触れたのは、人生最後の五日間。
何十年と同じ人物、同じ音楽に縋って生きた律人とは違う——
ガクがそのことを話すと、イオリは納得したように頷いてみせた。
「……なるほど。
確かに僕の中での春木律人という人物は、ビルマで共に過ごした五日間の記憶しかない……。
トリガーとなるものが少なくても、おかしなことではない——ということですね」
「そうなんだよな。
弓弦の中では、俺なんかよりむしろ、ご両親やお姉さんと過ごした時間の方がよっぽど長くて濃かったと思うんだ。
もし現世で弓弦の家族も生まれ変わっているなら、彼らと会った時にトリガーが引かれるかもしれない」
ガクが言うと、
「僕の家族……か」
と、イオリはゆっくり窓の方を見つめた。
「前世の僕——弓弦は、家族……とりわけ母と姉とは良好な関係を築いていたのですね。
音楽との向き合い方も、僕のように強制されてやっているのとは違う。
恵まれた人生だったんですね……」
「——イオリには、居ない?」
ガクは思い切って訊ねた。
「ご両親のことは、もうなんとなく——いやだいぶ分かってきたつもり。
でもイオリの家族って、父親と母親の二人だけ?兄弟とかは?」
「いません」
「祖父母は?」
「……今年亡くなった祖母が、僕にとっては唯一の家族——でした」
イオリが小さな声で答えると、ガクは「実は」と告げた。
「気を悪くしたらごめんな。
昨晩、イオリが夢の中でうなされてたっぽくて、寝言が聞こえてさ」
「!……寝言なんて言ってたんですか、僕」
「うん。それで、『助けて——おばあ』……まで言いかけてたから、
もしかしたら『おばあちゃん』を呼んでいたのかな……ってさ」
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