88 / 200
-ガク-夏の逃避行⑪
「……そうでしたか……」
イオリは考え事をするように宙を見つめると、ゆっくりと話し始めた。
「おばあちゃん——祖母は、父や母とは違い、僕に何かを強いるということはしない人でした。
『イオリがしたいことは何?』『イオリが好きなことをすればいいんだよ』と言ってくれて、僕の主体性を尊重してくれました」
「良いおばあちゃんだね」
「ええ。僕が遠出を許されていたのは祖母の家に行く時くらいでしたけれど、
祖母の家に行くと、東京に戻りたくない、という気持ちになりました」
「そっか。おばあちゃんの家が俺の地元なんだっけ。
一緒に暮らしては無かったんだな」
「そうですね……。
母が自宅でピアノ教室を開いているので、音や人の出入りなどもあって
祖母が落ち着いて暮らせないだろうから、というのが理由だと聞いていましたが。
——今思えば、祖母に知られないためだったんでしょうね。これのこと」
イオリはシャツの裾を捲り、ちらりと腹部を見せた。
痛々しい痣と傷に胸が痛みつつも、その中で唯一、前世の自分がつけた痕を見ると、よからぬ欲求も沸き上がってくる。
ガクはそれを必死で押し込むと、
「おばあちゃんは知らなかったんだね、それのこと」
と言った。
「はい。——言葉での当たりが厳しいことについては祖母も気づいており、度々両親との間に入ってくれていました。
……本当はこの過度な躾のことも相談したいと思ったことがありましたが……
怖かったんです、僕以上に非力な祖母にまで両親が手を出してしまったら——と。
祖母は僕を庇ってくれるけれど、僕はもしもの時、祖母を守ってあげることができるだろうか——と」
イオリは少ししんどそうに息を吐くと、窓の外へ視線を向けた。
「……夢で祖母に助けを求めたのは、現実では躾のことを打ち明けられなかった後悔が反映されてのことかもしれません。
僕は……『助けて、おばあちゃん』と声を上げることが出来なかった。
——最期までおばあちゃんには、バイオリンが大好きな、好んでバイオリンをやっている孫なのだと信じていてもらいたかったから」
イオリはそう言った後、不意にガクを見つめた。
「でもガクが助けてくれた」
「えっ?」
突然自分の名前が出たことと、昨晩お願いした『ガク』呼びをされたこととで二重に驚いたガク。
「俺が……?」
「あの家から連れ出してくれたでしょう」
「あ、ああ……」
でも——
「あの時は夢中でそうしちゃったけど……
これから大学をどうするかとか、イオリに不便させないかとか、俺の行動が正解だったのかと不安にもなってるんだ。
——まあ、あの姿を見て、そのまま置いて去る選択肢も浮かばなかったけどさ」
ガクが悩ましげに言うと、イオリはこう言った。
「大学のことは、後で考えます。
ちょうど夏休みですし……。
ガクが連れ出してくれなければ、あと一ヶ月半くらいは家から出られない暮らしを送っていたところでした」
それを聞いたガクは、
「そうだ、俺たち今、夏休みなんだよな」
と腕を組んだ。
「こんなに長い休み、就職したら絶対経験できないよな。
それなのに俺はバイト三昧、イオリはあのままいけば家の中だけで夏を終えていたなんて——
よしっ!イオリ——旅行しよう!!」
「旅行?」
弾かれたように提案したガクに、イオリはまだついて行けていない様子だった。
「旅行旅行旅行!!
イオリとどっか遠くに行きたい!」
「旅行ですか……」
「だって籠る場所がイオリんちから俺んちになったとはいえ、このままじゃ家の中で夏を終えることになるよ。
イオリのおばあちゃんもさ、イオリが人生楽しんでいる方がきっと喜んでくれるよ」
「!そう、でしょうか」
「イオリの好きなことをしなさい、って言ってくれたんでしょ?
——なら俺と出掛けようよ!
好きな人と楽しいことをすれば、『好きなこと』になるでしょ?」
ガクは残りのドライカレーを掻き込むと、
「じゃ!塾講で旅費稼いで来るわ!」
と言って立ち上がった。
「今日は家庭教師じゃないんですね」
「そっ!ちなみにカテキョは物理中心、塾の講師としては数学メインで教えてんの、俺」
「頭良いんですね」
「かなぁ?まあ人より勉強できる自覚はあるけど、ははっ」
ガクはからりと笑った。
「正直、俺教師に向いてる気がするんだよね。
なんかさ、ガチの天才って、出来ることが当たり前だから、人に教えるのは向かないって言うじゃん?
教える相手が『わからない』ことを『わからない』から。
その点、俺は自分が勉強でつまずいた経験あるからさ、生徒の視点に立っても教えてあげられるっていうか」
「ガクは将来、教師になりたいんですか?」
イオリが問うと、ガクはぽりぽりと頬を掻いた。
「いや、それがさー……
教職課程取ってなかったんだよねえ。
必要なコマ数がめちゃくちゃあるから、バイトとかの時間入れられなくなるなあと思って。
今思えば、サークルを諦めれば詰め込めたかもしれないんだけど、
でもサークルを通して友達の輪を作れたとこもあるからさ。
結局、全部欲張るって難しいんだな!」
ともだちにシェアしよう!

