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-ガク-夏の逃避行⑫

「全部を、欲張る……」 イオリはその言葉をしばし噛み締めているようだった。 「どうかした?」 「……いえ。『欲張る』という発想が、今まで自分の生き方になかったな、と思って。 バイオリン一色と言っても過言ではない人生だったので」 「そうかぁ。じゃあ、これから欲を張って行こうぜ! 俺と出掛けたり、遊んだり、楽しいことしながら、他にもやりたいことが見つかったら、それも全部やっていけばいいよ」 ガクはリュックにバイトの道具を詰め込むと、それを背負い上げた。 「差し当たって、俺はイオリと旅行がしたいから、頑張って金を稼ぐ! ——イオリは行きたいところ考えといて!!」 そう言ってアパートを出て行ったガク。 イオリはガクがシンクに置いて行ったカレーの器の隣に自分の食べ終えた器を置くと、粛々と皿を洗っていった。 「行きたいところ、か」 イオリは独り言を呟きながら手を動かす。 「……ガクと居られるなら、どこでも良いな」 ガクが塾のバイトを終えて戻ってくる頃には、空は夕暮れに染まっていた。 「ただいまー」 そう言ってドアを開けると、中からふわっと良い香りが漂ってきた。 「えっ……!まさかイオリ、ご飯作ってんの?」 ガクが調理場に視線を向けると、イオリが鍋で何かを煮込みながら包丁で野菜を買っているところだった。 「火!?包丁!?」 ガクが仰天すると、イオリはにやりとした笑みを浮かべた。 こんな悪戯っぽい笑みを見せるイオリは初めて見たガクは、どきり、と小さく心臓が跳ねた。 「……バイオリンと距離を置いている今の僕は、火も包丁も解禁なんです」 「そうなん……?」 「僕が解禁させました」 イオリはそう答え、鍋の蓋を取ると、その中に野菜を入れていった。 「それは——何作ってるの?」 「祖母の家でよく出してもらっていた料理です。 お昼に祖母の話をしたら、急に懐かしくなったので……」 「てか、料理したことないって——」 「自宅では無いですよ。でも、祖母の家では手伝わせてもらっていたので、少しならできます」 ガクが鍋を覗き込むと、そこにはやや不揃いだが細かく刻まれた野菜類が何種類も煮込まれていた。 「良い匂いの素はこれだったんだ。 ——あれ?うちの冷蔵庫にゴボウとかあったっけな?」 「スーパーで買ってきました。ガクと一緒に行ったあそこです」 「ええっ!?でも——」 「お会計なら自分のカードで支払ったので、気にしないでください」 イオリは「幸い、カードが使えたので、未だ止められてはいないようです」と付け加えた。 「確かにスマホは持って来れなかったけど、財布は持ち出してきたよな。 でもカード生きてるんだ」 「僕も、両親が僕を探しているとしたら、まずカードを止めて、生活できないようにして自発的に帰って来させるものかと思ったのですが——」 だよな。 カードが使えるままっていうのはちょっと不気味だ。 それに…… 「スーパーのお金、出すよ」 「いいですよ。カレーの時は出してもらいましたし」 「でもさあ……」 「お会計はスーパーへ行く毎に交互に払うのではいかがですか? ——それに今日のこれは、僕が勝手に買ってきたものですから。 僕が食べたくて……それからガクにも食べてみて欲しくて」 そう言われてしまったら、素直に甘えるしかないと思ったガクは、広げていた財布をしまった。 ほどなくしてイオリは火を止め、鍋の中身を器に盛り付けた。 大根、ゴボウ、人参、木綿豆腐、じゃがいと、せりなどが細かく刻んで煮込まれており、そこに一皮存在感を放っていたのは白い物体だった。 「これ……すいとんかな?」 「すいとんと言うんですかね?」 「群馬の郷土料理にこんな感じのなかったっけ。 あれ、でも地元の料理じゃないよな、そしたら」 「祖母は色々な地域の郷土料理を食べさせてくれました。 冷や汁とか、きりたんぽ鍋とか……」 「なるほどなあ。料理好きのおばあちゃんだったんだね」 「食べましょうか」 ガクはイオリに促されて箸を持った。

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