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-ガク-逃避行の終わり④
「……っ」
ガクは眉間に皺を寄せた。
「そんな噂——信じたい人が勝手に信じればいい。
そんな噂一つで会社が潰れるなんてこと——」
「ない、と言い切れるか?」
イオリの父親は、口元に僅かな笑みを浮かべた。
「家族に迷惑はかけたくないだろう。
それに君のお父さんの会社が潰れるようなことがあれば、君の通っている大学の学費はどうなる?」
「!」
「電気通信大学ということは理系の学生だね。
理系で、その分野の知識を活かせる就職先へ入るには、院卒でなければ採用されないことも少なくないとか。
君の同級生も、大学院に進む人が多いのではないかな。
つまり、あと四年——
君は四年分の学費を、自分のアルバイト代だけで稼げると思うか?」
ガクの背中に、冷たい汗が滴る。
「奨学金を借りるにしろ、社会に出てから何十年とかけて返済する必要がある。
借金を抱えた状態で社会に出るのがどれだけの足枷になるか——
まあ、まだ学生の君には、想像もつかないようなことかもしれないがね」
想像がつかないこと。
それは知っていること以上に不安を煽る。
借金、という言葉はガクの胸にずきりと刺さるものがあった。
借金をしていない今だって、働き詰めなのに——
「……それでも……」
ガクは歯を食いしばり、イオリと繋がっている手に力を込め直した。
「それでも、いい。
これから先どんな苦労をすることになっても——
イオリをあんたらの家に帰すよりはマシだ!
俺はこの選択に後悔なんてしない、絶対に」
ガクが、自分に言い聞かせるかのように力強く宣言した時だった。
「……ガク。ありがとう」
ずっと押し黙っていたイオリが、弱々しく口を開いた。
「ガクの気持ち、本当に嬉しい」
「イオリ……」
「ここまで想ってもらえて、本当に幸せだと思う」
「当たり前だよ。イオリのことは俺が守るって決めているから」
「——嬉しい、けれど」
イオリの手が、するりと抜けていく。
ガクは手のひらから温度が消えていくことに戸惑いを感じた。
「だからこそ——僕のせいでガクの将来を破滅させるようなことはしたくない」
イオリの言葉を、はじめ上手く飲み込めなかったガク。
「イオリ……?」
「……だから……家に帰るよ」
「——帰らなくて良い!!」
ガクは慌ててイオリの手を握り直そうとした。
しかしイオリは一歩後退り、その手を拒んだ。
「俺のことはどうにだってなるから!
身体を——イオリを傷つけるような人達の元に返すくらいなら、俺どんな苦労だって背負える、頑張れるから!」
「……僕のために、ガクに不要な苦労を背負わせてしまうのは……辛いよ」
「そんなこと思わなくていいから、な、一緒にいよう……?
バイオリンと一切関係ない場所で、穏やかに過ごそうよ、俺と一緒にさ」
「……僕は……」
イオリは言葉を切った。
視線が交錯する。
イオリの目には、薄らと涙が滲んでいた。
「僕——バイオリンは嫌い。
嫌いだけど……、僕の人生、やっぱりバイオリンと離れることはできない——だから」
イオリはぎゅっと拳を握り締め、声を詰まらせながら言った。
「だから……さよなら、ガク——」
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