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-ガク-5年後③
「——聞いてます?ガク先輩!」
「っ……ああごめん。なんだっけ」
ガクを誘った後輩社員・麻希から声をかけられ、ガクははっと我に返った。
「ガク先輩、社内報の新入社員自己紹介コーナーで、好きな音楽に『アヴェ・マリア』って書いていたじゃないですか。
私、一個下の代なのでその社内報は先輩から見せてもらったんですけど——
ガク先輩って明るいしスポーツが好きって言ってたので、クラシックも聴くんだあって意外に思ってたんですよ」
ガクは自分が一年前に書いた社内報を思い出し、「ああ」と答えた。
「実はクラシックはね、その曲しか聴かないんだ。
勘違いさせちゃってごめんね」
「えっ、そうだったんですか!?
あ——じゃあ今日のコンサートも、実はそんなに興味なかったですか……?」
つまり、コンサートではなく、コンサートに誘ってきた麻希に興味があって応じたのだ、という誤解を避けたかったガクはこう切り返した。
「——てのは冗談で、クラシック、結構聴くよ。
あとは今日の公演に出る人にも興味があったから」
すると麻希はこう言った。
「ガク先輩も好きなんですね!雪宮麗華!」
「ん?……あー……」
「私も麗華ちゃんのファンなんです!
高校生の時からお姉さんと一緒にテレビに出て歌声を披露してて、こんなに綺麗な声の人がいるんだあって衝撃を受けたんですよ。
国立音大に進学した後も、麗華ちゃんTikTokや YouTubeのショート動画に自分の歌ってるところアップしたりして、積極的に活動してて」
雪宮麗華がクラシックや声楽に精通している界隈では有名な人物であるということは、ここ数日ネットで調べた情報で知ったことだ。
これまでの五年間、イオリの名がどこかに載っていないかとコンサートの予定などを検索してはきたが、イオリ以外の名前は情報として視界に入ってきていなかった。
麻希もまた、麗華目当てでこのコンサートに応募し、運良く当てたチケットでガクを誘ったらしかった。
「しかもS席で応募したら、最前列が当たっちゃって!
生の麗華ちゃんの歌声を間近で堪能できるなんて楽しみすぎますっ!
——あ、もちろんガク先輩とデートできることもとっても楽しみにして来たんですよ!?」
そう言って麻希は、職場では着ることのないシックなドレス風ワンピースをはためかせてみせた。
「夫婦の共演コンサートなんだってね」
そんな麻希のアピールをあえていなし、ガクが話題を振ると、麻希は「ですです」と頷いてみせた。
「麗華ちゃん、美人だから今までも絶対モテてるんですけど、
なにせおうちが由緒正しすぎるので、結婚相手もそれなりに制約がある中で選んだ相手だと思うんですよね!
お姉さんが旦那さんの家に嫁いだのもあって、姉妹しかいない麗華ちゃんは、婿入りしてくれる男性じゃなきゃいけなかったとも思いますし。
でも、旦那さんの経歴を見たら納得ですよね。
東京藝術大学のバイオリン科でコンサートマスターを務めた、バイオリンのエリート!
ご家庭も音楽一家のお金持ちで、麗華ちゃんと充分釣り合いが取れます。
しかも……ビラの写真で知ったんですが、とってもイケメンなんですよねー!
——あっ、ガク先輩のほうが、私は好きなタイプですけれども……!」
最後の言葉は耳に入ってこなかった。
ガクと麻希は受付を済ませると、最前列にあたるS席に着席した。
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