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-ガク-再会②

「ガクの手を離した時のこと—— 今ならば、あの選択が間違ってなかったって思える」 「……なんで?」 ガクは視線を机の上に落とした。 俺にとっては、あの日の後悔がずっと心の中で燻り続けているのに—— 「ガクがきちんとした勤め先で働いていることを知れて、安心した。 僕がもしガクに着いて行っていたら、もしかしたら今——」 「ああ。俺に着いて来ちゃったら、今ごろは綺麗な嫁さんとの出会いもなかっただろうからな」 ガクは遮るようにして言った。 「結婚おめでとう、イオリ。 ステージの上で共演する二人、とってもお似合いだったよ」 「……」 イオリは何も言わず、レモンビールのグラスを口元へ傾けた。 「……五年も前のことだろ。 今が幸せなら、昔のことなんか思い出すことないよ」 ガクもビールを傾ける。 苦味が舌の上をピリッと刺激した。 「ガクは——今、幸せに暮らせてる?」 イオリが尋ねてくる。 「ああ、幸せだよ。 借金せず大学院まで行けたし、今は勤め先の開発部門でバリバリ働けてる。 大学時代より良い部屋に住めるようになったし」 「……結婚は?」 「まだだよ。社会に出てから一年だしな。 でも、嫁さん貰えたら安泰かもな」 「付き合ってる人も……いないの?」 「聞いて何になるんだよ」 ガクは、少し苛立った声で言った。 イオリに対して、こんな負の感情を直接ぶつけたのは初めてかもしれない。 「俺がフリーだって言ったら、イオリ、俺と不倫すんの?」 イオリが黙り込む。 戸惑うように視線を逸らすイオリを見て、言葉の選び方を間違えたと気づいたガクは、こうフォローした。 「……なーんて、な。 安心しろよ。結婚してる人に手を出すような不誠実なこと、俺は考えてないから。 あとちなみに、付き合ってる人はいないよ。 ——ここ五年くらい、ずっとフリー」 表情を和らげ、さっきよりも棘のない言葉を使うと、イオリはじっとガクを見つめてきた。 穢れを知らないような、澄んだ瞳。 見つめていると吸い込まれそうになるほど、綺麗な色の瞳。 「……妻とは……麗華とは、半年前に見合い結婚した」 イオリが口を開く。 表情は変えず、真っ直ぐとガクを見つめながら。 「両親から、同じく音楽一家で育った声楽家の女性と見合いをしてみないか、と。 ありがたいことに、向こうから縁談の声をかけてくれたから、と。 ——僕は、その結婚の条件が婿入りすることだと聞いて、それを了承した。 家を出ることができれば、今より自由になれると思ったから」 イオリはその後も淡々と話し続けた。 「見合い相手の名前も、顔写真も見ないうちから、僕は縁談を受け入れた。 結果的には見合いの席も設けられたし、入籍する前に何度も会うことになったけれど。 麗華と対面した後も、結婚の気持ちは変わらなかった。 ——家を出られるなら、それだけで良かった。 それに……もう、意味がなかった」 イオリは、黙って話を傾聴していたガクに、じっと視線を送った。 「ガクと居る未来を手放した時点で、僕に描ける未来は、誰と結婚したとしても同じものだった」

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