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-ガク-再会③
「……そんなんじゃ、奥さんが可哀想だろ」
——長い沈黙の後、ガクが言った。
「いくら見合いでも……イオリと生涯を共にする覚悟で、麗華さんは夫婦になったんだろ。
イオリがそんな気持ちじゃ、麗華さんが不憫過ぎる」
するとイオリが言った。
「麗華は——たぶん、僕の心が無いことは分かってる。
それに……そのことに傷ついているとも思わない。
——彼女には『恋人』がいるから」
ガクが目を見開く。
「恋人……?」
「国立音大時代から付き合ってる、音楽とは全然縁のない仕事をしてる人。
毎週末になると、麗華はその人に会いに行ってるよ」
知らなかった。
不倫しているのは、奥さんの方なのか。
ガクは殴られたような衝撃を受けた。
夫婦共演の単独コンサートを開き、業界から注目を集める音楽家夫婦。
その実態は、結婚当初から互いに関心の向いていない仮面夫婦だったというのか。
「……じゃあ、なに」
ガクはゆっくりと口を開いた。
「今日ここで俺と会ってるのは、不倫してる奥さんへのあてつけ、的な?」
「……麗華がどこへ出かけて、誰と会っていようが、僕は怒ったり悲しんだりしないよ。
——僕の意思ひとつで会いに来た」
イオリはレモンビールを飲み切ると、静かに席を立った。
「今日はありがとう……。
久しぶりに会えて嬉しかったよ」
「——もう行くのか?」
ガクが言うと、イオリは脱いでいたジャケットを羽織りながら頷いた。
「ガクに言われて考え直したよ。
こうやって昔の恋人とお酒を飲むことだって、不貞行為になり得るんだと。
ガクが不誠実なことを嫌うなら、僕は不誠実な行動は取りたくない。
だから——帰るよ」
イオリがさっと歩いて行き、会計を済ませようとする横から、ガクが慌ててカードを置いた。
「カードで!二人分お願いします」
「……いいの?」
「たった一杯だけだろ。俺に出させてよ」
「……ありがとう」
ガクは支払いを済ませると、店の入り口で待っていたイオリと合流した。
「ご馳走様。それじゃあ、元気で——」
「イオリ!!」
ガクは、咄嗟にイオリの腕を掴んでいた。
「俺……っ、確かに不誠実なことは嫌いだよ。
俺は生まれてこの方、自分では割と真面目に生きて来た方だと、思う……。
だけど——」
イオリの腕を握りながら。
ガクは抑えきれない気持ちを吐き出す。
「だけど俺は——『あの日』。
イオリとの未来が手に入るなら、どんなことだってする覚悟だった。
イオリが俺の手を握ったままでいてくれたなら、俺は——イオリのご両親を殴ってでも逃げたと思う」
イオリが目を見開く。
「もしそれで、ご両親が運悪く亡くなって、人殺しになってしまったとしても……
俺はイオリと一緒に、どこまでも逃げ切ろうって思ってた」
ガクは、戸惑いを浮かべた表情のイオリを見つめた。
ずっと会いたかった、ずっと忘れられなかった人。
何度も夢の中で再会を思い描いた人。
「……離したくない。
二度も、半永久的な別れを告げられるのは辛いよ。
これがイオリと会える最後になるくらいなら、俺は——不誠実なことをしたって構わない」
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