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-ガク-雪宮麗華⑥

「イオリ……」 ガクは、真剣な目をしているイオリの横顔を見つめた。 一点の曇りもない、澄んだ瞳。 一方の麗華の表情は、どこか影を帯びていた。 「そう。なら、離婚はしない」 麗華が告げる。 「麗華は僕と婚姻関係を続けて、彩花さんと一緒に暮らすことは諦められるの?」 イオリが聞くと、代わりに彩花が答えた。 「うちらは外で会おうと思えば会えるからね〜。 一緒に住めたら御の字だけど、まあ今の関係でも悪くはないかな、あたしは」 「私は……彩花も、子どもも諦められない」 麗華が言った。 「ならば、僕ではない誰か——音楽の才能に恵まれた男性と子どもを作ったとしても、結果は同じだよね。 ……どちらにしろ、産まれてきた子どもにとって、それが幸いかは分からないけれど」 「幸せに決まってる」 イオリの言葉を受けて、麗華が断言した。 「父親がいなくても幸せな子どもはいっぱいいる。 ましてうちは金銭面で迷惑をかけるようなことは絶対にないし、共働きの夫婦よりも、常に誰かが見てくれている環境もある。 お出かけや習い事だって好きなだけやらせてあげられるし、それに——」 「その子にも、音楽の道を強いるの?」 イオリの言葉に、ガクは息を呑む。 イオリからは、僅かながら怒りのような感情を感じ取ったガク。 なぜイオリが怒りを抱くのか、その理由がガクにはよく理解できた。 「僕の裸……見たことがあるよね」 イオリは黙りこくる麗華に問いかけた。 「僕が幼い頃から両親につけられてきた傷だよ。 息子をバイオリニストに育てるために、一日何十時間も防音室に閉じ込めて、 投げ出そうとしたり、発表会でとちったりしたら容赦ない体罰を受けて。 両親は揃っていたけれど——音楽以外の道を決して歩ませてもらえなかった僕の人生は、決して幸せとは思えなかった」 イオリは唇を僅かに震わせた。 「——麗華が子どもを産みたいと願う気持ちは否定しない。 家のために、僕の血を引く子どもを産むことに拘っているのが、僕は受け入れられないって話。 そうして産まれてきた子を、君や、君の家族は当たり前のように音楽の道へ進ませるだろう? ……そんな風に運命を定められて産まれてくる子どもは——きっと幸せじゃない」 イオリが必死で感情を抑えながら言うと、彩花はぽかんとした表情を浮かべた。 そして麗華の方は、眉根に皺を寄せている。 「——音楽家の家庭に産まれた子どもが、必ず不幸になるかのような言い方をしないで。 私は音楽家のパパママのもとに生まれて幸せだし、自分も音楽をやれていることを誇りに感じてる。 伊織の身体の傷なら、分かってる——理解してるつもりだよ。 でも私は伊織のご両親と違って、絶対に我が子には手を挙げないって確信してる」

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