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-ガク-両親⑦
「……僕が聞き分けの悪い子どもだったこと……
そのせいで苦労をおかけしたことは、謝ります……。
ただ、僕が今日ここに来たのは——
麗華との離婚を報告するためです。
これはもう麗華とも話し合い、決めたことなんです。
証人印を頂けないのであれば、それはもう諦めて、別の人に押してもらいます。
だから……今ここで昔のダメな僕の話を持ち出すのは、どうか終わりにしてください」
「——離婚って、親には止める権限無かったかしら?」
すると、母親が父親の方を見て尋ねた。
「……無いな。残念ながら。
当人同士が納得ずくで決めたのであれば、離婚は成立する。
証人印を押すのも、必ずしも親である必要はない」
母親が大きなため息をつくと、父親は暫し考え込む様子を見せたあと、ゆっくりと口を開いた。
「——私達は、伊織がプロのバイオリニストになれるよう、最善を尽くしてきた。
高価なモデルの楽器、練習に適した自宅の環境、海外からの特別講師、コンサートやコンクール後のフィードバック。
そして東京藝術大学を卒業するまでの費用を全面的に負担してやった。
……だが伊織は、それに感謝するどころか、いつもバイオリンに対しての愛情が欠けていた」
父親は立ち上がると、窓の方へ歩いて行った。
外の景色を眺めながら、怯えているイオリに向けてこう言い放った。
「だが、結果的に、お前はバイオリン以外に生計を立てる知識も技量もない大人に仕上がった。
お前からバイオリンを取り上げれば、お前には金を稼ぐ術がなくなる。
——お前は生まれてこの方、貧困というものを知らないだろう。
自分で稼ぐこともできず、我が家や雪宮家でのような不自由ない暮らしを送ることもできなくなった時——
お前は自分が間違っていたことに気づけるのだろうな」
「僕の……バイオリンを、父さんに返すよう……そう言っているのですか?」
イオリが訊ねると、父親はくるりと室内へ向き直った。
「そんな使い古しの楽器を引き取る気はない。
そうではなく——お前がこの先、どのステージにも立てないように。
どのオーケストラ楽団とも共演できないように、私の権限とコネクションのすべてを持って手を回す。
——お前のバイオリンの音色は、もう日の目を見ることがなくなるというわけだ」
「イオリがバイオリンで収益を上げることができなくなっても問題ありません。
俺がイオリの分まで稼ぎます!!」
ガクが声を上げると、母親はくすっと笑った。
「そんな若くして、二人分の生活を支えられるほどの収入がおありなの?」
「っ……贅沢はさせてあげられなくても、生活に困窮させるようなことはしません!」
「そう?——で、伊織がもうバイオリニストとしてステージに立てないことについては可哀想だとは思わないの?」
「ステージの上じゃなくてもバイオリンを弾くことはできます。
大勢の耳に届くことがなくなっても……。
イオリが俺のために弾いてくれるなら、俺は一日中だってイオリの奏でる音を聴いていられる」
「ガク……」
イオリは顔を上げると、それまで不安ばかりが滲み出ていた表情を初めて和らげた。
「……そうだね。僕にはガクがいる。
たった一人の観客でも、一番届いて欲しい相手に音を届けられるなら、僕はずっとバイオリニストだ」
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