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-ガク-始まり②
改札を抜けてきたイオリの両手は、スーツケースとボストンバッグで埋まっていた。
背中にはバイオリンのケース。
地方の公演に遠征に行くかのような装いだが、自分の持ち物はこれで全てだとイオリは言った。
「……ほんとにこれだけ?
今日から住むってことは、イオリからすれば引っ越しだよね……?」
「うん。他に荷物はないよ。
雪宮家では家電や家具は既にあるものを使っていたし、実家に置いてあったものは今頃処分されてるんじゃないかな」
「すごい。こんな身軽な引越しをする人、初めて見た」
イオリの私物が全て鞄の中に収まっているとすれば、持ち物の中で一番大きな荷物はバイオリンということになる。
バイオリンが一番嵩張る引っ越しって、どんな引っ越しだよ。
「それにさ、僕が大きい荷物持ち込んだとしてもガクが困るでしょう?」
「ま、まあ……元々単身者向けのアパートだしな。
でもイオリと暮らせることになったら、もっと広い家に住もうと考えてたよ」
「僕、狭くてもいいよ。
それとも単身者しか住めない条件のアパートだった?」
「いや、そういう規約はなかったけど……」
狭い部屋に二人で暮らすのは、大学二年生の夏にも経験したことだ。
イオリが色々荷物を持ち込んだとしても、俺の私物を断捨離すれば良い話で、それはどうとでもなると考えていたけれど——
「今日……から、一緒に住むんだよな……。
なんかまだ実感が湧かない、というか……」
「迷惑だった?」
イオリが不安そうに顔を覗き込んでくる。
「出直した方が良ければ、雪宮家に一度戻るよ。
——考えてみれば僕、麗華との離婚届を出したら、すぐガクの元に行けるって考えてた。
ガクにだって色々都合はあったよね。
ごめん——気持ちだけ先走り過ぎちゃっていたかも」
イオリがそう言うと、ガクはぶんぶんと首を横に振った。
「ううん!俺も嬉しい!
一日も早く会いに来てくれて嬉しいよ!」
ガクが力強く言うと、イオリの不安げな表情が、僅かに安堵に変わった。
「部屋、あんま綺麗じゃないけども。
取り急ぎで片付けただけだから、イオリに引かれないかだけが心配事というか」
するとイオリはにっこりとした笑みを浮かべた。
「僕、掃除と整理整頓なら得意だから任せて。
これからはガクだけの家じゃ無くなるでしょう?」
「っ……そう、だね。
確かにイオリの部屋、めちゃくちゃ整ってたもんな」
「両親『だった』人達からの躾の中で、活かせるものがあって良かったよ」
皮肉めいた言い方をしつつ、イオリに毒気はなかった。
両親とも、雪宮家とも関係が切れたことが、彼のフットワークを軽くさせているのかもしれない。
「じゃあ——帰ろっか。俺たちの家に」
「うん」
ガクはイオリの肩に掛かっているボストンバッグを引き受けると、並んで歩き出した。
「あ、そうだ。一旦荷物置いたらさ、スーパー寄らない?
冷蔵庫、あんまモノ入ってなくてさ」
「いいよ。……そういえば大学時代のガクはよく自炊してたよね。
今はあんまり作ってないの?」
「自炊したいけど、作る時間が無いんだよねえ。
終電近くに帰ってくる日もザラにあるし……」
「え……。今日、仕事大丈夫だった?」
「今日は半休取って上がらせてもらった!
——でもごめんな、平日は多分ほとんど家を空けることになるから、イオリに寂しい思いをさせてしまうかも……」
ガクが心配そうに言うと、イオリはくすりと笑った。
「——ガクが一生懸命働いているのは、大学の時もそうだったでしょ。
僕のことなら、気にしないで。
それに——会えなかった時間に比べたら。
これからは……毎朝毎晩、会えるんだから」
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