167 / 200
-秋庭弓弦-ビルマの5日間③
「ご清聴ありがとうございます」
僕は律人に話しかけた。
それまで心地良さそうに音楽を聴き入っていた律人は、弾かれたように目を見開いた。
そんな仕草を僕は、可愛らしい、と思ってしまった。
「勝手に聴き入ってすまない」
「いいですよ。観客がいる方が、弾き甲斐もあるというものです」
僕は穏やかな表情で、唇の端を上げてみせた。
「人に聞いてもらいたいならば、このような森の奥深くで演奏することもなかろうに」
ここじゃなきゃ、意味がないんだ。
君にだけ聴かせたくて、ここにいるのだから。
「——あなたは耳が良いんですね」
「俺の耳が良いのだとしたら、ここでの非日常が積み重なってできた賜物だろうな」
律人が皮肉めいたことを言いたくなるのも最もだろうな。
けれど彼は僕のバイオリンをこう言ってくれた。
「疲れ切った心身に染みるような……寄り添ってくるような音色だった」
僕はそれを聴いて嬉しくなった。
僕にとってもこの曲は、演奏している間は失った家族がすぐ側で寄り添ってくれているような安心感を得られる。
律人も僕の演奏でそんな気持ちを抱いてくれたのだと思うと、自分がバイオリンを弾けるまで練習した日々を誇らしく思えて来る。
「僕はバイオリンが好きなので、日本からビルマまで持参したんです。
軍楽隊では扱わない楽器だから、隊で演奏する時には使えないですが」
「じゃあさっきは別の楽器を演奏していたのか」
「僕はクラリネットを」
「ふうん……?それも管楽器とやらなんだな?」
「そう。クラリネットも良い楽器ではあるんですけれども。
ただ僕は、バイオリンを愛しているから——バイオリンを連れて来たかった」
律人は、僕が「愛している」なんて言葉を使ったものだから、少し面食らったような表情を浮かべていた。
でも僕にとってこの楽器はそう形容するほかないに等しい存在だ。
バイオリンは『家族』との思い出が詰まった特別な楽器だから。
秋庭弓弦にとっても。
そして——イオリにとっても。
「頼む。さっきの曲をまた聴かせてくれ」
——夜が更け、僕はそろそろ切り上げる『時』が来たと悟る。
バイオリンを片付けていると、律人が躊躇いがちに言って来た。
「さっきの——アヴェ・マリア……良かった。
真剣に音楽を聴いたことなんか無かったけれど、真剣に聴きたくなるほど、アンタの演奏が良かったんだ」
「それじゃあ、明日の晩も森の中でバイオリンを奏でましょう。
今日よりももっと奥深い所で。
もしあなたが音を辿ることができたら——好きに聴いてください」
『もし』ではない。
きっと必ず、君は辿り着くよ、律人。
ともだちにシェアしよう!

