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-秋庭弓弦-ビルマの5日間④

ビルマへ降り立ってから、二日目の夜。 昨日と同じようにアヴェ・マリアの演奏を終えると、律人の頬に涙が伝っているのが目に入った。 「大丈夫ですか?」 「え?」 「涙が……」 僕が言うと、律人は自分の手で頬に触れ、そこが濡れていたことに少し驚いたような様子で口を開いた。 「なんで——」 僕は律人のことが心配になり、隣に座り込んだ。 「何か悲しいことがあったわけではないのですか?」 「違う……。いや、悲しいと言えば、ここへ来てからのすべてに絶望してはいるけどな。 『これ』は、そういうんじゃない。 アンタの演奏を聴いていたら、勝手に流れてきたんだ」 そうか—— 律人と僕が、短い時間で打ち解けられるようになるのは、『ここ』が似てるからだ。 音楽へのシンパシー。 日本での律人を僕はよく知らないけれど、ガクのことはよく知っている。 『僕』とガクは、性格は正反対だった。 だけど同じ音楽を聴いて、同じように感受することができる。 『アヴェ・マリア』を聴いて、魂が震えるような感動を覚えるという感性の一致が、 短い期間の中で『僕』と律人の仲を急速に深めてくれたのだろう。 「そういえば、アンタの名前、まだ聞いてなかったな。 ——俺は春木律人」 僕は、イオリ—— そう言ってしまいそうになるのを、ぐっと堪える。 「秋庭弓弦です」 『この身体』は秋庭弓弦として20年も生きて来たのに、『イオリ』として生きる未来の記憶を取り込んでしまったせいで、 『イオリ』としての心に引っ張られてしまいそうになる。 暫くの沈黙の後、律人は自分の身の上話をしてくれた。 「俺はごく普通の家に育った次男坊で、学校を出てからは家の畑を手伝ったり、工場に勤めたりする日々を送っていた。 ここへ来る少し前に嫁さんを貰ったんだが、まだ子どもも作る前に招集を受けて—— 実家に嫁さんを残して単身ビルマにやって来たというわけだ」 そうか……。 『ここ』では律人が結婚しているんだったね。 未来の世界では『僕』のほうが一度既婚者になる。 『僕』が麗華と結婚することで、ガクを悲しませてしまうのが、今から忍びなくてたまらない。 僕はそんな罪悪感から逃れるように、自分の生い立ちも軽く話した。 その後—— 「なあ、明日もここでバイオリンを弾いてくれるか? 今朝上官の話を耳にしたんだが、軍楽隊はもう暫くビルマに滞在するんだよな?」 律人が訊ねてきたから、僕は頷いてみせた。 「そんなに気に入ってくれたなら——明日もこの場所で」 その翌朝—— 「捕らえたぞ!!」 朝早くに叫び声が聞こえ、僕は目を覚ました。 「誰か、縄をもってこい!尋問してやる」

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