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-秋庭弓弦-ビルマの5日間⑥
ビルマでの三日目の夜。
「今日は遅い時間なんですね」
いつものように律人がやって来る。
そしていつものようにアヴェ・マリアの演奏を終えた後、僕はバイオリンを手に腰を下ろした。
「日本にいた頃の春木さんは、何に関心を持っていましたか?」
「そうだな……。
俺の家は小さな畑を持っていたから、兄弟で協力して畑仕事に精を出す日々だった。
工場で働いていたのも日銭を稼ぐためだし、
特にこれといって打ち込んだ勉学も趣味もなし——要はつまらない人間だよ」
「そういえば次男坊だと言っていましたね。
家族はご両親とお兄様と、それから奥様で全員ですか?」
「そうだ。まあ、嫁さんを迎えたのは召集がかかる直前だったから、まだ家族という実感も湧かない頃だったが」
「なるほど。新婚だというのに、それは辛いですね」
同情の言葉を吐いてみたけれど、実際はもう知っている。
その奥さんと君は、本当はもう——
「——実は、少し前に日本から知らせが入った。
その嫁さんが、俺の兄と再婚したと」
律人は少し気まずそうな素振りで話し続けた。
「っ、後家婚——戦死した夫の兄弟や従兄弟と再婚するというのは、このご時世よく聞く話だよな。
俺の場合、俺がまだ生きているうちからそんな知らせが届いたものだから驚いたが」
「……辛いですね」
「いや、実はな」
律人は苦笑いを浮かべつつ、少し気恥ずかしそうに後頭部をくしゃりとかいた。
その仕草もやっぱり、ガクとよく似ている。
「元々俺は女に関心が無さすぎて、親が半ば強引に見合いを組んだんだよ。
嫁さんにはあまり気を掛けてやれなかった自覚があるから、早々に兄の方に乗り換えたのも納得がいっているんだ」
「それでも、奥様は君の元に嫁いできたわけでしょう?」
「……そも、俺は嫁さんを迎える資格なんて無かったんだ。
女に関心がないと言うのも、恋愛に疎かったという意味合いというより——
女のことを性の対象として見ていなかった、というべきか……」
『ガク』は元々異性愛者で、僕と出会う前の高校時代までは彼女を作ったりしていた。
そこは律人と違う部分だ。
そんなガクが『イオリ』と会った瞬間から『僕』を意識してくれていたのは嬉しい。
それくらい、ガク——いや律人にとって、僕——弓弦が、強烈な記憶として刻まれていたってことだと思うから。
「……嫁さんを迎えて、初夜に——勃たなかったんだ」
そんな話をする律人に、僕は再び共感する。
『イオリ』としての僕は、お見合い結婚をした麗華との夜、一度も勃たなかった。
知る限りの知識で精一杯前戯をしたけれど、麗華のほうも全く濡れる気配はなくて、
今思えば互いに『これは何の時間なのだろう』『営みの真似事』のように感じていたんじゃないだろうか。
「家のためにも子を作りたいと言う気持ちは俺も持っていたし、嫁さんもそれを望んでいた。
——でも、どうにもならなくてな。
それで……嫁さんとは気まずい関係が暫く続いて……
だから召集がかかった時、どこか内心でほっとしている自分がいた。
嫁さんの方も、俺がほぼ生きて帰れないであろう異国での戦場に送り出されると聞いて、せいせいしたことと思う」
「そんなこと……!
奥様も……ご家族も、あなたが生きて帰ってくるのを心待ちにしていると思いますよ」
「どうかな。
——俺が死んだという知らせを待たずして再婚する程度には、心待ちにしてくれているかもしれんな」
「それでも……生きて帰ってあげて欲しい……」
君には生きて帰って、そして僕のことをずっと思い続けていて欲しいから。
そんなことを口にしたら、今の律人には気味悪がられてしまうだけだから、言わないけれど。
「僕には妻はいないから、奥様の気持ちは想像できかねるけど……
少なくともご両親やお兄様は、春木さんの帰りを心待ちにしていると思う」
すると律人は、自分だって早く日本に戻りたいだろうに、僕のことを気にかけてくれた。
「——秋庭も、五日間だけとはいえ、日本で両親と姉上が帰りを待っているんだろうな」
ううん。もう帰ることはないよ。
僕はそう言ってしまいたいのを抑える。
そして、律人には僕の境遇を包み隠さず話しておこうと思う。
「一つ謝らなければならないことがあります」
「え?」
「先日、家族の話をした時、あたかも皆健在であるような前提で話をしたけれど——
実は母と姉は、もうこの世にはいないんです」
僕は、語るためには辛い過去を振り返らなければならないことに少し気分が落ち込みながらも話した。
「去年、日本でたちの悪い病が流行し……母と姉は相次いで病に伏せ、そのまま亡くなった。
だから日本に帰っても、家に居るのは父一人だけなんです、本当は」
「それは……言いにくいことを言わせてしまってすまない」
「僕が紛らわしい話し方をしていたのがいけないんです。
僕が——まだ二人の死を受け入れられずにいて、過去の人のように言いたくなかったから。
二人が生きていてくれたら、という願いが滲み出た話し方をしてしまった」
けれどその出来事がなかったら、僕は今も日本で楽器を演奏しながら、のんびりと暮らしていたのだろうか。
戦争なんて遠い場所で知らない誰かが戦っているものだ、と第三者のように振る舞いながら——
僕はその後、母と姉がよく『アヴェ・マリア』をピアノとバイオリンで演奏している姿を眺めていたことを話した。
「……母と姉が死んだ後、僕は姉のバイオリンを譲り受け、密かに練習を重ねました。
姉が弾いていた『アヴェ・マリア』を、どうしても再現したかったから。
一年前までは確かに存在した、母や姉との幸せな時間を忘れたくなくて——
僕が姉の演奏を引き継いでいきたいと願って、この一年、この曲ばかりを練習してきた」
「……だからこの音楽をやりたかったんだな、秋庭は」
律人にそう呼びかけられ、なんだかくすぐったい気持ちになる。
『イオリ』と『ガク』はずっと下の名前で呼び合っていたから、苗字で呼ばれると余計に距離があるような感じがしてしまい、どうにもしっくりこない。
「——『弓弦』でいいですよ」
「ならば、弓弦。俺のことも律人と呼んでくれ」
律人はすぐに了承してくれた。
こんな風に、決めたことは迷わず即実行するのも彼の良いところだ。
だから僕も律人に倣って、すぐにこう呼び返した。
「わかった、律人」
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