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-秋庭弓弦-ビルマの5日間⑦
ビルマでの、四日目。
「——弓弦」
律人は僕がバイオリンの演奏を終えると、こんなことを尋ねてきた。
「バイオリン——俺でも弾くことってできるのか?」
これまでの三日間で、律人は随分とバイオリンに興味を持ってくれたみたいだ。
「触ってみます?」
僕はバイオリンの弓を律人に渡し、持ち方などをなるべく丁寧に教えた。
けれど、律人が弓を弦の上で弾いた時——
グギギ、というくぐもった音が響いた。
律人は無念そうに顔を顰めたけれど、僕はそんな律人が可愛らしくて仕方なかった。
僕だって、初めてバイオリンを弾いた時はこんな音しか出せなかったよ。
僕は、律人の指先で綺麗な音色を鳴らせるようになったら、律人に喜んでもらえそうだなと思い、彼の後ろに回った。
そのまま背後から、僕の右手を律人の手の上に重ねる。
……どんな理由をつけてでも、律人に触れたかった——
なんて言ったら、やっぱり律人に気味悪がられそうだから口にはしない。
「これくらいの強さで引いてみて」
僕は律人の手を持ったまま、すうっと弓を下に引いた。
力や角度の調整は僕がしていたけれど、律人からすれば、自分の手で鳴らせた音に聞こえたはずだ。
案の定、律人は「おお」と目を輝かせてくれて、その後も自分一人で音を鳴らす練習を続けていた。
けれど下から弓を引き上げる動作で、また律人は思うような音を出さず、僕は背後から律人の手を取った。
僕が律人の耳元辺りで解説をしていると、律人が突然身体をぶるりと震わせたから、僕は慌てて離れた。
「すみません、近過ぎましたね」
さすがに、出会って四日の相手との距離感ではなかったかな……?
僕が不安に思っていると、律人はこんなことを言った。
「いや……。そのお陰で力加減がよく理解できている。このまま続けてくれ」
律人はそう言ってくれたものの、僕は距離感に気をつけながら、再び律人の手を取った。
その後暫く、お互い練習に夢中になっていたけれど、次の位置がだいぶ動いていたことに気がついた。
今夜も更けてしまったな。
律人といると、楽しくて、嬉しくて、あっという間過ぎてしまう。
僕はバイオリンを片付けながら、密かにため息をついた。
「——それにしても、ここは本当に暑い。
夜だというのに、気温が一向に下がらないのですね」
何でもいいから、もう少しだけ会話をしたくて、そんなことを口走った。
「そうなんだよ。
こんな暑い軍服なんて着てられるか!って思うことが何度あったか」
律人は襟元を引っ張り、パタパタと中に風を送っている。
「暑いのは苦手か?」
「……日本の夏は嫌いじゃないんですけどね」
夏——
それは未来の世界で、『僕』とガクが過ごすことになる季節。
大学二年、『今』と同じ20歳の『僕』が、ガクの家に逃げ込んで、そこで二人だけの暮らしを送るんだ。
それも夏休みの間だけで終わってしまうけれど——
「ここの日中の暑さは結構厳しいな。
軍楽隊で演奏をしている間は正直しんどかったです」
「確かに、暑い中で吹奏楽器を吹いていたらあっという間に酸欠になりそうだ。
ええと……クラリネットと言ったか」
「はい。それに人だけでなく、楽器も高音には弱いから大変なんですよ。
クラリネットは息を吹き込むところにリードという、薄い木の板をセットするのですが
気温や湿気で痛むと音の出方に影響するから、こまめにメンテナンスをしてあげないといけなくて」
そんな会話を交わしていた流れだからか、律人がこう言った。
「機会があれば、クラリネットの吹き方も教えてもらいたいものだな」
「いいけれど……、吹奏楽器だから、口をつけたところを共有することになりますよ。
それが嫌でなければ、になるかと」
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