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-秋庭弓弦-ビルマの5日間⑧

「嫌じゃない。全然」 律人は間髪を容れずにそう言った。 「ここじゃ水筒の回し飲みだって当たり前にやるしな。 弓弦が口をつけたクラリネットを吹くのは全く抵抗は無い」 「——そうですか」 そうか。律人は慣れているのか。 未来の世界ではそれを『間接キス』と呼んだりもするから、僕にはちょっと特別な、ある程度心を許した相手としかやりたくない行為だと感じてしまう。 「僕は潔癖気味だから、水筒の回し飲みは抵抗があるなあ」 「!そうなのか……」 潔癖気味なのは本当だ。 だけど僕が強調したいのはそこじゃない。 「でも、律人なら良いよ」 律人だから、その行為も嫌じゃないんだと——僕の気持ちが少しでも伝わるように、そう言った。 「……少なくとも、嫌われてはいないと分かって良かったよ」 「ふふ、嫌いな相手に家族の話までしたりしないですよ」 「それは俺が先に腹を割った話をしたから、弓弦もそれに合わせてくれたのかと思っていた」 「まさか。僕が身の上話をしたのは、律人のことを信頼できる人間だと思ったからですよ」 「ははっ……俺たち、出会ってまだ四日だろ」 律人から、至極真っ当な言葉が返ってくる。 そうだ。律人にとって僕は出会って四日目の男。 まだまだ素性のわからないところも多く、警戒されてもおかしくない関係。 だからこそ、僕は早く腹を割った話をしなければと思っていた。 だって僕に——僕たちに残された時間は、あと僅かしかないのだから。 「弓弦とは会うたびに新しい面を知っていくし、弓弦だって俺のことをまだ全部は知らないよな。 信頼できると断言してくれるのはありがたいけども」 「確かにそうかもしれませんね。 僕はあなたのことを、まだほとんど知らない。 僕が信頼できると思えるのは——この四日間を通して見たうちのあなただけだ」 違う。 本当は『君』をよく知っている。 まだ起きていない未来の出来事だけども、僕はその世界を『視た』。 そして僕は、『君』——そう、律人である君も、ガクである君も、一途に僕を想ってくれたことを知っている。 だから君のこと、僕は心から信頼できるんだ。 「僕は明後日にはここを離れ、また違う戦地へ慰問に伺います。 あなたと接することができる時間が少ないことは初めからわかっていることです。 ……だから」 僕は言葉を切ると、地面を見つめた。 言ってはいけない。 明かしてはいけない。 僕がもうすぐ死ぬこと。 君を一人にしてしまうこと。 言って、共にここを逃げ出すことができたなら——そんなことも考えたけれど、 日本から遠く離れたこの地で、二人だけの力で逃げ出し、生き延びる道なんてあるだろうか。 どちらにしても、その選択をした時点で、僕が『イオリ』として君と再会する未来は消滅するだろう。 僕はぐっと唇を引き結び、覚悟を決めたあと、再び顔を上げた。 「たとえ一生のうちの、数日だけの交流だとしても——この出会いに後悔はしたくない。 だから……僕は初日から君のことを信頼しようと決めていましたし、心のうちも偽らず接したいと思っています」 律人は、僕を真っ直ぐに見つめ返してくれた。 刺さるような鋭い瞳が、僕の心を激しく掴む。 ああ——僕はきっと、未来の記憶を取り戻さなかったとしても、君に恋したんだろうね。 律人。 僕は縋るように律人を見つめたけれど、彼から返ってきた言葉は拍子抜けするくらい素っ気ないものだった。 「そうだな。まあ短い間だけど、仲良くやろう」

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