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-イオリ-第二楽章②

「はぁ……はぁ……」 ——僕は気がつくと、ガクの腕の中にいた。 「大丈夫ですか!?」 「今、お水を——」 遠くで式場のスタッフさんたちが慌てふためく声が聞こえてくる。 ガクは心配そうに僕の顔を覗き込みながら、何度も僕の名を呼んでいた。 「イオリ!大丈夫か、イオリ——」 そうだ。 僕の名前はイオリ…… 『秋庭弓弦』として生きたのは、もうずっと前のことなんだ。 指輪を嵌めてもらった瞬間、とてつもない量の記憶と情報が溢れ込み、僕は意識を失ってしまったらしい。 その間、僕は無意識の中で、前世の出来事を追いかけていた。 音楽一家に生まれ、母や姉と音楽を楽しむ日々を送ったこと。 仲良しだった母と姉を失い、失意の中、軍楽隊の海外慰問でビルマを訪れたこと。 そして、そこで春木律人に出会うこと—— そこからの五日間があまりにも鮮明で濃厚で、僕はこれが夢なんかじゃなく、本当に前世の自分が経験した出来事を追体験しているのだと悟った。 あまりにも壮絶な最期。 けれど、『僕』が感じていたのは絶望ではなく希望だった。 あの時の『僕』が死ぬ間際に夢見たこと。 それは最愛の人から、左手薬指に指輪を嵌めてもらうことだった。 「——イオリ、お水貰ったよ。ゆっくり飲んで……」 僕はゆっくりと瞼を上げると、ガクの顔を見つめた。 そうか。 そうだったんだ。 ガク、君は—— 僕が今思い出した記憶を、もう何年も前に取り戻していたんだね。 ガクの言葉を信じていなかったわけじゃない。 元々は異性愛者だとも聞かされて。 共通点もほとんどないし、中々心を開けなかったし。 僕が好かれるような要素は何も持ち合わせていなかったのに、 初対面の時も、その後度々会うようになってからも、ガクからずっとアプローチされていた。 前世からの関係—— それを本当だと信じざるを得ないくらいには不可解なことが多かった。 信じるとすれば、ガクの言動は辻褄の合うものばかりだった。 けれど僕自身はそんな前世を知らない。 だから困惑したし、はじめは怖かった。 ガクの真剣な目を見て、嘘をついているとか、悪い人だとはどうしても思えなかったから、僕もシャットアウトするようなことはしなかった。 ——もし、あの時から僕が記憶を思い出せていたら、こんなに遠回りをすることもなかったのかもしれない。 初めから同じくらいの気持ちの強さで、ガクと交際を始められたのかもしれない。 でも僕は結局、前世を思い出すことがなくても、ガクのことを大好きになった。

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