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-イオリ-再出発①

そこからの展開は早かった。 僕は早苗さんのひと声で、音楽系マネジメント会社としては業界最大手の事務所に所属することが決まった。 一応、その前に事務所のスタジオでバイオリンの演奏を披露したり、過去の出演したコンサートの映像や音源を社内で共有してもらったり、簡単な面接を受けたりだとかの審査は行われたけれど。 早苗さんが熱烈にプッシュしてくれたお陰もあって、僕は事務所が主催する『若手バイオリニスト達の夢の共演』という趣旨のコンサートに参加させてもらえることになった。 停滞していた一年が嘘のように、目まぐるしい日々。 僕はこの一年で人前に立つことがなくなり、かなり腕が落ちていることを自覚していたから、コンサートの日まで懸命に練習した。 事務所のスタジオを貸してもらえたから、終電ギリギリまで練習を続けた。 早苗さんは、毎晩遅くまでバイオリンを弾き続ける僕の体調を心配してくれた。 早苗さんにとっては、大切な存在だった如月奏さんを過労で亡くしたこともあって、僕に無理をして欲しくなかったのだと思う。 でも僕は練習を終電までに切り上げられるなら、全く苦には思わない。 いつも明け方近くまで狭い防音室に篭って練習をするのが当たり前だったから。 それを破れば、厳しい制限と体罰を与えられるという恐怖に怯えながら、死ぬ思いで練習を続けてきた十数年間。 それに比べれば、恵まれた環境で、自分のペースで弾けるのは何の負荷とも思わない。 そして何より、ガク—— 僕が再びステージに立てるかもしれない、という話をしたときは、その場で飛び跳ねていた。 きょうび、そんな反応の仕方をしてくれる20代後半がいることに驚いたけれど、 自分ごとのように喜び、小躍りをしているガクを見て、胸がいっぱいになった。 ガクはコンサートの日の予定を必ず空けてくれると言った。 僕のステージを必ず観に行く、と。 だから僕は自分にできる精一杯をもってステージに立ちたい。 練習を続けていたある時、早苗さんからこんなことを聞かされた。 『イオリ君を出演者リストから外すよう、とある音楽協会から事務所に脅しがあったみたい。 これって、たぶんイオリ君のお父さんの差金よね。 話に聞いた通り、勘当した息子に対して未だに執着しているのねえ』 僕は早苗さんや事務所に迷惑をかけてしまった事を何度も詫びた。 けれど早苗さんは怒るどころか、からっとした笑みを浮かべた。 『ウチの事務所は脅しに屈しないわ。 そんな簡単に潰れるような規模じゃないもの。 それに会社が引いても、私が引かない。 イオリ君は絶対降板させません、って念を押したから大丈夫!』 ああ、僕はこんなに素晴らしい人に支えられているんだな。 僕は早苗さんに出会えた縁への感謝と、僕を見出してくれた期待に応えるため、コンサート当日まで懸命にバイオリンと向き合い続けた。

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