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第3話
……どうして、天城とこんなことになっているんだ。
歯噛みするたび、記憶の時計の針は三か月前の寒い冬の夜に巻き戻る。
もう忘れてしまいたいと願う過去ほど、ひとは強く擦り込んでしまうらしい。
二十九歳の誕生日を夜更けのバーでひとりで迎えるという虚無感を強い酒で飲み干したついでに、誰にも触れられたことのない身体を行きずりの赤の他人に差し出してしまおうと思い詰めた夜だった。
潔癖で、真面目なことしか取り柄がない御影は、なにもしなければ一生ひとりだ。
セックスも経験しないで死ぬのかと思うとなんだかひどく情けなくなって、もう誰でもいいから、あっさりと最初を踏み越えてしまえばいいと、生真面目な自分らしくもないことを考えたのがよくなかった。
どうでもいい相手――いかにも遊んでそうなアルファに声をかけられ、みじめさと諦めと悲しみ、言いようのない孤独感に苛まれながら肩を抱かれ、むりやりくちづけられる気持ち悪さに震えたときだった。
ぐっと腕を引っ張られて驚くと、見知らぬ若い男が真剣な顔で、『やめておいたほうがいいですよ』と止めてきたのだ。
『こいつ、オメガに乱暴することで有名です。あなたもひどい目に遭いますよ。ついていかないほうがいい』
いきなり冷や水を浴びせられた気分に襲われ、顔を引き締めた。いったい、自分はなにをしようとしていたのか。バーで声をかけてきた他人にはじめての夜を明け渡そうとしていたなんて。
――でも、これが最初で最後のチャンスかもしれなかったのに。
もう一度同じ勇気を出せばいいともし誰かに言われたら、横っ面を張り倒してしまいそうだ。軽率に言うなと。無謀なことをするのだって勇気がいるのだ。
だけど、出鼻をくじかれたアルファの男はむっとした顔で去っていってしまった。
残された御影にバーテンダーや周囲の客が口々に、『そっちの若い男の言うとおりだよ。いまのやつ、マジで悪評しか訊かない』とか、『いつ声をかけようかと心配してました』と言い出し、文句もうやむやになってしまう。かえって、恥ずかしさが募り、慌ただしく会計を終えて店を飛び出たところでもう一度腕を掴まれた。
いやいや振り向くと、先ほど仲裁に入ってきた男だった。黒い癖毛が若々しい相貌によく似合っている。ざっくりしたオフホワイトのニットに暖かそうなチョコレートブラウンのダッフルコートという姿は、まるで学生みたいだ。
『よけいなことをしたっていうなら謝ります。でも、放っておけなくて。あの……よかったら、俺、奢りますからべつの場所で飲み直しません?』
育ちのよさが滲み出る素直な声が、かさかさにひび割れた胸に染み込むようだった。きっと、彼はどこにいても誰といても愛されるのがうまくて、愛することにも長けているはずだ。
もっと違う出逢い方をしていたら、と思わずにはいられない。
――いい年をした大人の男が、やけくそで初体験を捨てようとしていた。
思い返すと顔から火が噴き出そうなほど恥ずかしい。悔恨で胸もずきずき痛む。無意識にそこを手で押さえ、じゅわりとなにかが滲む感触に慌てた。
『あの、大丈夫……ですか? 胸、どうかしました?』
『なんでもない、帰る』
男への礼もそこそこに帰宅し、風呂に入るためにシャツを脱いで棒立ちになってしまった。
――胸からミルクが滲んでいる。シャツが濡れてる。
少し前から、胸が張る感覚はあった。男オメガだからどういう可能性もあり得るのだが、まさか自分がミルクを出すようになるとは。
素っ裸のままスマートフォンで検索しまくると、ごく希に同じ症状を見せるオメガがいるようだ。まずは病院のバース科に相談し、適切な治療を受けたほうがいいとネットはアドバイスしていた。
深刻な病気ではない。ただ、ホルモンバランスが崩れただけだし、『男性オメガの搾乳について』という真面目な論文も見つけたぐらいだ。
こどもをおなかに宿さなくても、なにかのきっかけでホルモンが過剰に分泌されると、胸からもミルクが出ることがあるとかないとか。
そこまで読んで大きなくしゃみをし、急いで風呂に入ってから寝落ちするまでネットの記事や情報を読みあさった。
翌日、半休を取ってひそかにかかりつけの病院に足を運び、バース科で診断してもらった結果、『確かにちょっとホルモンの値が崩れていますが、こういう変化はあるものですよ。ちゃんと寝て、食べて、しっかり身体をやすめてください。いちおう、精神的に落ち着くお薬も出しますが、こういうことはオメガにはよくあります。あまり悩まなくて大丈夫。ちゃんと収まりますから』と主治医に励まされたものの、午後から会社に向かう足取りは重かった。
あの若い男に二度と会わなければ、恥ずかしい夜も思い出さなくてすむ。記憶の底に封印してしまえばいい。
そう思ったのに、神様はいたずらがお好きらしい。
この春、中途採用された天城真尋は広告代理店の営業から、御影のいる製薬会社に転職してきたという異色の経歴だ。
明るくタフで、誰にでも好かれるような笑顔を武器にし、いまいち売り込みが弱いと言われている我が社に来てくれたのはありがたいが、彼が開発部に挨拶に来たときはあまりの偶然に怖くなり、頭が真っ白になってしまった。
会社で再会するなんて。
若い男だと思っていたが、四歳も下だ。
そんな男に恥ずかしい場面を見られていたことがいまさらながらに悔やまれる。
そして、いま。
天城はこの胸に宿る秘密を知る、数少ない男だ。
御影がオメガで、性体験がないことをからかってきたわけではない。天城はとつぜんの再会に呆然とする御影にそっと近づき、『あのあと大丈夫でした? 胸も大丈夫?』と囁いてきて、よけいにこじれそうだった。
反射的にぎゅっと胸を押さえたのもまずかったようだ。
『もしかして……胸からなにか出るとか』
『なにかってなんだ。適当なこと言うな』
『気を悪くしたらすみません。オメガの男性の中には、ミルクを出すひともいると聞いたことがあるんです。もし、御影さんがそうだとしても、俺は絶対に誰にも言いません。絶対に』
真面目な顔をじっくりと見つめる中、ふっとすがりたい気持ちが生まれてしまったことを誰かに咎められるだろうか。
長いことずっとひとりだったのだ。早い時期に両親を亡くし、福祉や支援団体のおかげでなんとかここまでやってこられた。
恋愛に疎く、性的なことにも奥手だった。あまつさえ、ありったけの勇気を出して誘いに乗ろうとした男が遊び人だと指摘されてしまったら、同じような怖さは絶対に味わいたくないと思ってしまう。
きっと、そんな自分は重くて面倒だ。いい大人だからこそ厄介だ。
なのに、天城は安心させるように微笑みかけてきて、『しっかり仕事します。そのうえで、あらためて先輩に声をかけます』と言った。
営業部の有能な新人は毎日かならず開発部にやってくる。
無愛想な御影にチョコレートやおまじゅんう、ケーキや羊羹といった甘い差し入れを持ってきて、軽い世間話をしていく男の快活さにだんだん惹かれていった。
そして今夜、ひとり部署に居残っていた御影を『家まで送りますよ』と言ってきた後輩と一緒になにげなくロッカールームに入り、彼の前で白い上っ張りを脱ぐと、彼がぐっと息を詰めたのだ。
苦しそうな息遣いとともに御影を抱き締めてきて、「――あの夜のことを持ち出したら怒られるってわかってるから、言えなかったけど」と天城は苦く微笑んだ。
「あなたが忘れられなかった。ずっとあなたのことばかり考えてた。どこの誰とも知らない男に身を任せようとした無謀さが心配で、あなたの胸のこともずっと覚えてて……その身体、まだ誰にも知られてません?」
「知られるわけないだろう」
急に持ち出された話題に顔を真っ赤にし、御影はそっぽを向いた。気を許したのは間違いだったかもしれない。なのに、間合いを詰めてきた御影に抱き竦められ、さんざん耳元で淫らな言葉を吹き込まれて翻弄され、ぎりぎりまで触れられて高められた身体は我慢できなかった。
十分に煮詰められた蜜をあふれさせたことに天城は満足そうで、羞恥と後悔と、少しの期待で胸を揺らす御影を抱き締めながら囁いてきた。
「約束どおり、おうちまで送りますね。……今度はもっとちゃんとしたかたちで、ミルクをたっぷり搾ってあげたいな」
こんな馬鹿げた言葉のどこに期待するのか、自分でもさっぱりわからない。
仏頂面で御影は頷き、のろのろと着替え始めた。
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