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第4話
二度と会社で恥ずかしい思いをしないためにも、念には念を入れたほうがいい。
ロッカールームで天城に詰め寄られた翌日から、御影はアンダーシャツを厚地のものに変えた。夏はこれから本格的になるが、暑いだなんだと言ってられるか。それよりも貞操とおのれのプライドのほうがずっと大事だ。
コットンのアンダーシャツだけではこころもとないから、乳首に絆創膏でも貼ろうか。いや、さすがにそれはやりすぎな気がする。
しかし、また天城に踏み込まれたら――今度こそ暴力的な欲情に呑み込まれてしまいそうだから、御影は家にあった普通のサイズの絆創膏を左右の乳首にぺたりと貼った。こうしていれば標準サイズの、ただの突起でしかないのに。どうしてこんなものが、ちょっと弄り回されただけでびりびりと甘やかに痺れるのか。自分でも不思議でしょうがない。
洗面台の前で自分の胸をまじまじと見下ろす。アンダーシャツを鎖骨までまくり上げ、臍まで晒す格好はなかなか間抜けだ。
横長の絆創膏を左右の乳首に一枚ずつ丁寧に貼ってアンダーシャツを引き下ろすと、前よりももっと平らに見えて満足した。これなら、万が一のことがあってもなんとか窮地をしのげるのではないか。
たとえば、乳首がふっくらと盛り上がってしまっても、ミルクがちょっとぐらい滲んでも、絆創膏が隠してくれるはずだ。
天城の目からも。
いままで意識していなかった部位がある日を境に、とつぜん気になってしまうなんて。意識しても勃つわけがない乳首に「勃ってみろ」と言ったところで、そうなるわけがない。絶対に。自分で弄ったって、ただの丸っこいちいさな粒だ。
なのに、天城の長い指で捏ねられ、あの熱っぽい視線で射竦められると、身体の真ん中に焔が生まれて、勝手に乳首がふくらみ、不埒な年下の男に『もっと触ってくれ』『もっとねじってくれ』とでも言いたげに、ほのかに先端を赤く染めてしまうのがなんとも腹立たしい。
自分の身体なのだから、反応するなと命じたら従ってほしいのだが。
――なんて、バカか私は。胸に呼びかけてどうするんだ。
ため息をついてネクタイをきつく締め、出社した。
東京の湾岸地域に、御影が勤める製薬会社がある。誰もがその名を知る大手企業だ。御影は入社以来、オメガのヒートをコントロールする抑制剤の研究と開発にあたってきた。
三か月ごとに発情してしまうオメガ性に生まれつき、それなりに向き合っていると思う。
これ以外の身体になったことはないし、女性だから妊娠して当たり前とか、男性だからそうじゃないとかいう性差の感覚も持っていない。ただ、身体のつくりが他人とちょっと違うだけだ。
たまらずに発情してしまう身体を恨めしく思いつつも、現代は効き目がよく、副作用の少ない抑制剤がたくさん開発されている。ヒートも個人差があり、軽い発情ですむ者もいれば、御影のように十日ほど休まないとつらい者もいる。
一度ヒートが始まると、日がな一日、快感を発散するとしか考えられなくなってしまう。思春期の頃はそんな自分が汚らわしく思えたこともあったが、同時に、いつかこの手でもっといい薬を作るのだという目標を持つこともできた。だから、歯噛みしながらつたない手淫で身体の最奥にこもる欲望を、ひとり孤独に解き放ってきた。
相手を作らなかった理由は、ただひとつ。
我を忘れるような渇望を、赤の他人にぶつけてしまうのが怖かったのだ。
絶頂の瞬間は泣くほど気持ちいいだろうけれど、気がすんだらえげつない欲を剥き出しにしたおのれを絶対に悔やむはずだ。
もし、いつかどこかで偶然に偶然を重ね、身もこころも安心してゆだねられる運命の番にめぐり逢うことができたら、そのときは羞恥心を堪えながら愛を求めたいけれど、いまはまだそのときじゃない。
最新の医学はもちろん古今東西の薬物事情、民間治療まで頭に叩き込み、来る日も来る日も開発室にこもって白い上っ張りの裾を翻し、灯り煌々と照らす部屋で日がな一日、研究を繰り返す。
それが御影の日常だったが、今日はちょっと違う。
デスクを立ったり座ったりするだけで、胸に意識がそれてしまうのだ。なにかのきっかけにまたもミルクが滲んだらどうしよう。
製薬会社に勤めているのだから、こっそりと搾乳して成分を検査したり、いままで飲んできた薬による副作用がないかどうか確かめる絶好のチャンスだとも言えるのだが、うかつに触れてまたもとんでもないことになるのが怖い。
だけど、なにもしないわけにはいかない。ちょうど周囲の人間は出払っており、室内は御影ひとりだ。
急いであたりを見回し、ここには自分しかいないことを確認した御影は汗ばむ指でシャツの前をはだけ、左胸の絆創膏を剥がし、ふっくらと赤く染まる乳首の先端を指でつまんで括り出した。とたんに、きぃんと電流のような快感が全身を走り抜け、膝が笑い出す。
まさか、ここまで敏感になっているなんて。
どうかすると甘い吐息を漏らしてしまいそうになり、必死にデスクの縁に腰を押しつけ、前のめりになった。
下肢が熱い。そこが脈打つ感覚に、背中の溝をつうっと冷たいものが垂れ落ちた。
頭を真っ白にさせて身体じゅう探りたいけれど、けだものじみた行為に耽っている場面をもし誰かに見られたら一発アウトだ。社会人としての地位もなにもかも剥ぎ取られ、一生変態の烙印を押されて生きていくしかない。
必死におのれを律し、ちいさな果物の成分を抽出するときと同じ要領で乳首の先に滲む白濁を採取した。と言ってもごくごく微量だ。シャーレに垂らした一滴をじっと見つめ、顕微鏡でのぞいてみたが、とくにおかしなところはない。
長いこと悩んだが、ミルクの提供者をごまかし、成分解析班に回す手はずを整えてから細く息を吐く。
開発者の勘でしかないが、たぶん、子どもを持った女性と変わらない成分のミルクだと思う。
男オメガの胸からミルクが出るのは非常にまれらしいが、ゼロというわけではなく、もし他人が口に含んでも害はまったくないということは、ここ数日の独自の調査でわかった。
健康体で、ミルクが出る。
子宮もあるから、その気になればこどもを宿すこともできるが、仕事に全振りしているいま、ちいさな命を守れるほどの責任感はない。
今後の身の振り方について深く考えたい――うつむいた天城の耳に軽やかな靴音が響く。はっと顔をこわばらせてもたもたとシャツの前を直し、深呼吸するのと同時に、後輩である女性研究員が、「先輩」と声をかけてきた。
「午後のミーティング大丈夫そうです?」
「あ、ああ、うん、いや、大丈夫」
「なんだか顔色よくありませんけど」
「そんなことない。朝からずっと調べ物が続いてるだけなんだ。すまない」
さりげない雰囲気を装い、三十分後に始まるミーティングに向けて準備を始めた。
開発中の抑制剤は、御影が入社する前から手掛けられている。前任の主任が定年退職したのをきっかけに御影が研究を引き継ぎ、臨床試験もなんとか終え、ようやく一般的に販売されようとしている大切な時期だ。厚生労働省の審査も通っている。
わかりやすく、信頼してもらえるネーミングをつけるための会議を、営業部や広告部も同席して行うことになっていた。
ノートパソコンと開発メモを書き込んだ手帳を小脇に挟み、会議室に顔を出すと、もうほとんどの席が埋まっていた。
御影は今回の薬の開発主任を務めているので、長机の突端のほうに腰かけた。隣に助手の後輩女性が座り、インスタントコーヒーを回してくれる。
ふと視線に気づいて顔を上げると、長机の向かい側に天城がいた。プラスティック製のカップを両手で包み込み、熱っぽく、ひたむきな視線で御影を射貫き、もの言いたげにくちびるを開く。
かたちのいいくちびるが悩ましい。
一瞬意識が逸れそうになるが、「それでは、会議を始めます」という進行役の男性の声に顔を引き締めた。
……胸がズキズキする。
あやうい錯覚に襲われて左胸を押さえると、机越しに飛んでくる視線が張り付く。
服の下まで透かしてくるような熱い視線が、どこまでも追ってくるようだ。ただ偶然、バーで出会っただけだったらどんなによかったか。
とんでもないアルファから助けてもらえたことには恩義を感じているが、その衝撃で胸からミルクが出るようになり、しかも職場で再会してしまったらもう逃げられない。
淫靡ないたずらを仕掛けられても仕方ないのだろうかと一瞬考えるが、本気で嫌悪を覚えるなら殴り飛ばすべきだ。
いくら男オメガだからと言っても、週に一度はジムに通って体力作りをしているのだし。
いつまた手を出されるかと思うと怖くなるが、胸の底がじわりと熱くなるような感覚は恐怖や怒りだけが生み出すものじゃない。
――期待してるんだろうか。またああいうことがあったらどうしよう、とか……。
そわそわする自分がろくでもないやつに思えて歯噛みしていると、「――御影さん?」と訝しげな声が聞こえてきた。
「は、はい」
「治験データについて確認しておきたいんですが、今日はお疲れみたいですね。ちゃんと眠れてないんじゃないですか」
ばっさりと斬り捨ててくるのは、年かさの営業部員だ。
ひとつの薬を生み出し、販売するまでには十年以上かかるのが当たり前の世界だが、御影が抑制剤の開発主任になってからというもの、以前にも増して時間をかけて精査するようになった。
それでよけいに薬の販売が遅れ、会社に打撃を与えているというのが営業部員の見解だ。
「申し訳ありません。データについてお知りになりたいことはなんでしょうか」
「その薬の投与を続けていくと不眠になる可能性が高いという問題です。ほんとうに不眠と開発中の薬の因果関係はあるんですか? もともと、オメガの発情期には睡眠障害を訴える者が多いという調査報告が数多くあります。今回も、たまたまそういうオメガが治験に当たっただけじゃないですかね」
彼はおそらく、一日も早く薬を販売させたいのだろう。新しい成分を加えたことでいままでの抑制剤より効き目がよくなったうえに、安価に製造できるとなれば、製品を売り込みたい営業部だって強気になるのはわかる。
「大臣からも了承されたんだし、あとは御影さんの最終チェックが終わるだけだっていうじゃないですか。なにをそんなにモタモタしてるんですか」
「薬の投与を続けた場合の不眠が強まる可能性を見捨てられないからです。不眠から、さまざまな疾患が生まれることもありますから、強行突破することはできません」
できるだけ穏やかに言ったつもりだが、顔をしかめる営業部員の隣に座る天城が心配そうな顔を向けてくることで、よけいに気が散る。
同情されているのか。胸からミルクが滲む年上の開発主任があたふたするのが面白いのだろうか。ここで隙を見せたら、またあとでなにをされるかわかったもんじゃないから、「ともかく」と御影は顔を引き締め、声を落とす。
「もう少しだけチェックさせてください。お待たせして申し訳ありません」
「じゃ、薬のネーミングだけでも決めましょうよ。パッケージや広告も考えないといけないんだから、こっちは」
それは開発にまったく関係ないことだ。
薬という、人体に大きな影響を及ぼす存在をそう簡単に世の中にぽんぽん出せるわけがない。この会社に入ったとき、定年まで開発にあたっても、流通させられる薬は多く見ても二、三種類だと先輩社員に言われていた。
一種類でも出れば報われるし、正直なところ、長年の研究成果が世の中に出なくても構わない。ただの風邪薬だって長年にわたって研究と改良が重ねられ、いまのかたちがある。しかし、それでもアレルギーが出る者もいるのだから、薬の開発は難しく、やりがいがある。
――ここで簡単にうんとは言えない。
胸の裡の決意が伝わったのかどうかわからないが、天城が不機嫌な先輩社員にそっと話しかけている。ちいさな声はここまで届いてこないが、取りなしてくれていることはその落ち着いた横顔からも窺える。
きっと、天城なりに御影の立場を考慮してくれているのだろう。
ちらりと流れてくる天城の温かい目遣いに、御影はこのあいだの不埒な熱も一瞬忘れ、ほっと息を漏らした。
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