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第5話

「この場で決めなくても、まだスケジュールは都合できます。なんでしたら、俺が説明に回りますから」 「……ったく、まあしょうがないけどよ。なるべく早くにお願いしますよ」  ち、と舌打ちが聞こえてきてこころが荒むが、どこの会社も、製品開発部と営業部はそりが合わないものだ。  天城が取りなすように微笑みかけてきて、「あとでご挨拶に伺います」と言う。その声には、ロッカールームで熱を交わしたときの淫靡さは微塵も感じられず、ただ熱心で前向きな営業マンらしい態度だ。  だから、御影も内心の不満を押し殺し、無表情を貫いた。こんなことで動揺していたら、ビジネスなんてできない。薬の開発には長い年月とたゆまぬ情熱、そして冷静さがなにより求められる。  ――こんなことで怒ってもなんにもならない。  自分だってできることならきちんとした結果を一日も早く上げ、全方面の承認を取り、市場に出したい。だけど、焦りや油断がひとの生き方を狂わせることもあると思うと、やはり急ぐことはできなかった。  ぎこちない雰囲気で会議がまとまっていく。手帳に書き付けたスケジュールを見直し、「この夏には抑制剤のオーケーを出すこと」とボールペンで書き込んだ。あまりに力がこもったためか、手帳にくっきりと筆跡が残る。こんなに荒れた文字、自分でも見たくない。あとで清書し、このページは破り捨ててしまおう。  気配を感じて視線をちらっと上げれば、天城が心配そうにこちらを窺っている。やさしさと包容力を滲ませたその視線は、会議中の御影をちりちりと炙っていく。  しだいに落ち着かなくなってきた。不穏な会議の行方に苛々しているのもあるが、やはり天城が気になる。  昨晩、彼に触れられたばかりだ。胸を舐められ、下肢まで弄られて絶頂を味わわされた。あのとき身体とこころを包み込んだ熱の波はいまでもたゆたっている。  そう簡単に忘れられるか。  研究結果ですら延々と追い続ける性格なのだ。強く踏み込んできた男を視界から追い出そうとしても、無理だ。  天城の視線が頭のてっぺんから足の爪先へと一ミリ単位でゆっくりゆっくり下りていく。まるで目には見えないレーザーを当てられ、端から裸にされていくみたいだ。  ツキン、と胸の尖りがふくらみ始める感覚がして、息を呑む。  そんなところが反応するなんて、いままでになかったことだ。  内心大慌てするのと同時に進行係が会議終了を告げた。  すぐに立ち上がり、部屋を出ようとすると、うしろから「御影さん」と声が追ってくる。天城だ。 「先ほどはすみません。うちもちょっと焦っていて。でも、あなたの研究を潰すようなまねは絶対にしませんから」 「……わかってる。早めに返事する。今月中には」 「ありがとうございます。無理してませんか?」 「無理なんか。私も尻を叩いてもらったほうがいいと思ってたんだ。ちゃんと仕上げる」 「それなら、また時間を見て開発部にお邪魔します。今度はどんな甘いものがいいですか?」  いつも気の利いた差し入れをしてくれる男にちょっと悩み、「和菓子がいい」と言ってみた。 「ケーキやマフィンも美味しいけど、大福やおまんじゅうの甘さは集中力が持続する気がするんだ。気のせいだろうけど」 「ふふ、了解です。最近好きな大福があるんで、持っていきますね」  どこからどう見たって体育会系の爽やかな大型犬なのに、甘いものが好きなのかと思うと笑ってしまう。それも大福だ。 「ほかにもたくさんあります。御影さんに食べてほしいものを探しまくって、差し入れします。――ほんとは、俺を受け取ってほしいけど」 「……ッ」  最後の囁きはあまりに低く艶やかだから、自分にしか聞こえていないはずだ。だから、この昂ぶりもバレていないはずだ。  片腕をぎゅっと強く掴んで自制心を働かせ、深く息を吸い込む。  澄ました顔で天城から立ち去ったが、頭は熱に占められていた。このまま、彼のそばにいたら突発的な発情を起こしそうだ。廊下を歩く間も、エレベーターに乗る間も頭がくらくらし、息が浅くなる。  ここで発情したら、目も当てられない。職場ではオメガだということも明かしているし、だからこそ抑制剤を開発できる立場にある。  市場に出そうとしている薬には、まだいくつもの試薬が存在していた。そのうちのひとつはかなり強めに作用し、事故みたいな発情を嘘みたいに消し去るという報告が出ている。しかし、ひとによっては重篤な副作用を起こすこともレポートされていた。  過眠、食欲減退。さらには、一時的にむりやり性欲を抑える効果を示す代わりに、その後急激なヒートを起こす。  三か月ごとのヒートなんて比べものにはならないらしい。『獣になってしまうかと思った』と恐れるオメガからの報告があるバージョンを世の中に出すわけにはいかない。  しかし、いまは必要だ。  開発室に戻るなりデスクの鍵付きの抽斗をあさり、厳重に保管していた容器から開発途中の薬を取り出した。ミネラルウォーターのボトルを掴んで一錠飲み干し、ぎゅっと目を閉じた。  職権乱用という言葉が脳裏に浮かぶが、それよりもいまの危機を脱したい。  すぐさま身体中の熱が引いていき、頭のうしろが澄み切っていく。怖いぐらいの効果は、まるで麻薬みたいだ。実際に試したことはないが、それに似た成分のものはいくらでも作れる。薬を開発する立場だと、ひそかに被験者になることがあるのだ。  いま飲んだばかりのバージョンの成分をパソコンで確かめ、命を落とすまでではないとほっとした。  これなら、仕事できる。  身体の不調を抑えてでも仕事するひとはオメガじゃなくても大勢いるだろうが、ただの風邪ではなく、発情という露骨な秘密を劇薬で鎮めさせるいきものはやはり少しつらい。  そんなふうに考えるのは、別れ際に見た天城の笑顔があまりにやさしかったからだ。

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