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第6話

 効き目のいい薬はほぼ二週間にわたって、御影の発情を抑えてくれた。もう二度とこのまま突発的なヒートも、三か月ごとにやってくる発情期も起こさないんじゃないかと思うほどの静かなこころもちで、日常生活を送ることができた。  こんなに穏やかな日々はいつぶりだろう。  自分で開発した薬の効きめのよさに驚き、多少不安にもなったが、不眠症になったり食欲が減退したりなどの副作用は出なかった。長期にわたって服用したらまた違うかもしれないが。抑制剤を使う場合は、誰でも定期的な血液検査を行うことになっている。  御影も、来週にはかかりつけ医で調べてもらおうと決めていた。自分でチェックすることもできるが、やはり、自分の思い込みが介在しない第三者の意見がほしい。  はじめてのヒートを体験したときからずっと振り回されてきたのだ。普通のひとは――アルファやベータはあんな焦りを感じたことは一度もないのだろうと思うと、素直に羨ましい。心底羨ましい。  体調が持ち直したら、部屋の乱れがとたんに目につく。ある土曜の朝目を覚まし、散らかった部屋に愕然とした。  下町の森下駅近くにある1DKは冷蔵庫、洗濯機、ソファにテーブル、本棚といったものしかないのに、テーブルに読みかけの本が積まれ、脱いだ服も適当にそこらにかけてある。昨日遅くに帰ってきて呑んだビールの空き缶も片付けていなかったのだ。  おのれを少しでも几帳面だと思っていたことを恥じ、顔を洗ったあとは窓を全開にして大掃除した。  午前中いっぱいかかって部屋を綺麗にし、腹が減ったところで冷凍うどんをレンチンして生姜チューブをよく混ぜ、揚げ玉とネギ、韓国海苔を散らした真ん中にたまごの黄身を落として醤油を垂らせば、簡単生醤油風うどんのできあがりだ。トマトとインスタントの中華スープをつければ立派なランチだ。  手軽にできるのにおいしくて、最近こればかり作っている。  冷房をつけた部屋にはからりとした風がよく通る。アパートの三階にある部屋は静かで、ラジオから流れるピアノジャズにこころが解れていく。  このあとは買い物でも行こうか。いつも職場では白い上っ張りばかり着るせいか、服にはまったく頓着しない。バーゲンをやっている頃だろうが、服を見るぐらいなら雑貨屋をうろつき、目にやさしい観葉植物でも買いたい。  今日もしっかりアンダーシャツを着るかと考えたが、どうせひとりだ。もともと地厚のコットンシャツを着れば大丈夫だろう。夏場に汗をかくのがあまり好きじゃない。  気に入っているネイビーのボタンダウンシャツとチノパンを身に着けて外に出ると、ぎらつく太陽が怖いほどだ。そろそろ自分も日傘デビューだろうか。雑貨屋に行ったらそれもチェックしようと思いながらビルの陰や木陰を選んで歩き、駅に向かう。地下鉄に乗って数駅先にある神保町は好きな街のひとつだ。  新古書店が並ぶすずらん通りを練り歩き、文房具屋で仕事に使うメモ帳と愛用のボールペンを買い求め、二階にあるカフェで少し休むことにした。ここはケーキと紅茶が美味しい。とくにいまの時期は爽やかなレモネードが最高だ。  カウンターでミルフィーユとレモネードを注文してトレイに皿を載せてもらい、窓際のカウンター席に着こうとして、見覚えのある男の背中に一瞬おののいた。 「……天城……だよな?」 「先輩! うわ、なんでここに?」 「こっちのせりふだ」  頬杖をついて窓の外を眺めていた客の肩を指でつつくと、「びっくりしたー」とおどけ、天城はワイヤレスイヤホンを外して口許をほころばせた。 「ひとりですか? もしよかったら隣に座りません? あ、御影先輩、ミルフィーユ好きなんだ。俺も大好き」  無邪気な笑顔で矢継ぎ早に話しかけてくる天城が甘えるように語尾を跳ねさせ、やけにドキドキしてしまう。年下だからか、素直な感情を見せてくれる男にいちいちときめいていたら心臓が保たない。  隣に腰かけてレモネードをひとくち飲み、透明感ある甘酸っぱさにほっとひと息ついた。 「おまえ、この近くに住んでたのか」 「半蔵門線沿いにある清澄白河駅ってわかります? あそこです」 「けっこう近いじゃないか。私は森下だ」 「お、ご近所さんなんですね。よけいに親近感沸いちゃいます」  逞しい上腕二頭筋が映える真っ白なTシャツ姿の天城は、どこからどう見ても恋も仕事も順調なアルファだ。  健康的な肌色をしていて、色素の薄い髪色とよくマッチしている。やや背中を丸めて頬杖をついていると、すらりと長くしっかりした首、肩から上腕、前腕にかけての筋肉もぶ厚く、余分な贅肉などどこにもない。  大柄で鍛え抜いた厚みのある身体を目にするだけで、喉がからからに渇いていく。オメガじゃなくても、彼に惹かれるひとはきっと星の数ほどいる。  妙な威圧感がなく、ただただ屈託ない犬のように見えるのは彼が若いからだろうか。いままで出会ってきたアルファは社会的立場が圧倒的に強い、人生の勝者ばかりだ。  勤務先の製薬会社の社長もそう、開発部の上司もそう。エリートで切れ者で、たとえ組織の中にいてもけっして埋もれることがない。  穏やかな性格ですべてが平均的なベータが、アルファとオメガの真ん中にいてくれなかったら、世の中はもっと荒んでいたはずだ。 「天城って、ちょっとアルファっぽくないって言われないか」 「わかりますー? もうしょっちゅうですよ。ついにこにこしちゃうからかな。なんか、昔から笑顔が地顔なんですよね。むっとすることもあるけど長続きしなくて」 「いいことじゃないか」 「でも、たまにもっとクールなアルファになれたらって思いますよ。前職でもそういうシゴデキが多かったんで憧れました」 「前は広告業界の営業をやっていたって言ってたっけ。どうして製薬業界に来たんだ? 営業って言っても、うちはぜんぜん派手じゃないし」  一度、聞いてみたかった。明るくて存在感がくっきりしている天城が我が社に来て三か月。早々に取引先を開拓しているという喜ばしいニュースも耳に届いていて、洒脱な天城はやはり目立つ存在だ。 「給料だって、きっと前職のほうがいいだろうに」 「ふふ、まあそうですね。でも、お金には換えられないものがあるってわかったから」  無邪気な笑みに、ひと匙の誠実さが混ざる。 「俺の父親がおととし、ちょっと重い病にかかったんですよ。だけど、特効薬みたいなものがなくて、手術もできないんです。一生つき合っていくことになりそうだし、対症療法、つまり投薬治療になるとわかったとき、俺にもなにかできないかなって考えて……それで、転職を決意しました」 「……そうだったのか」  少しうつむく天城は両手を組み合わせ、間に置いたコーヒーカップの縁を親指でなぞる。その横顔は、いつもよりずっと繊細だ。  生まれたときから笑顔かと思うような男でも、事情があるのだ。華やかな世界をあっさりと捨てて、家族のためを思ってまったく違う業界で働く――その前向きさが、天城にはまぶしい。 「俺、脳筋なんで。前の広告業界だってタフなだけが取り柄でしたから、ほんとうに頭のいいひとたち……先輩みたいなひとの仕事の邪魔にならないかって毎日悩んでますけど、俺が深刻になりすぎてもしょうがないですしね。親父のように薬を飲むことで命が繋がるひとを少しでも助けたいっていう、それだけ。うちの会社にも、暑苦しい熱意だけで拾ってもらいました。先輩たちが日々真剣に取り組んでいる薬が俺の親父みたいに悩んでいる誰かに届くよう、ちょっとでもがんばりますね」 「偉い」  ぼそりと呟くと、天城が驚いたように顔を上げる。  いまのは、偽りのない本心だ。 「俺みたいに研究にしか興味がないような男より、おまえはずっと偉い。ちゃんと薬の役目を考えてるもんな。ひとのため、自分のため」 「先輩はどうしてこの業界に入ったんですか?」 「私は知ってのとおりオメガだから。自分の身体がどうしていろいろと複雑なのか、どうすれば三か月ごとの症状が緩和できるか、知れるところまで知りたい」 「先輩みたいなひとこそが、みんなを救うんですよ。身を粉にして研究に勤しんでること、俺も知ってます。いつも、いちばん遅くまで残ってますもんね。でも、ちょっと心配」 「なにが?」 「先輩はほんとうの意味で自分のこと、あまり大事にしなそうだなって。栄養ある食事とか十分な睡眠とか、ぜんぶ犠牲にして仕事に賭けちゃうでしょう? もしかしたら、部屋も乱れてることが多いんじゃありませんか」  痛いところを突いてくる。 「今日、掃除したばかりだ。でも、インテリアにまったく興味がないから雑然としてる」 「責めてるんじゃないですよ。先輩ぐらい忙しかったら当然だ。整理整頓にも得手不得手ってあるし。ちなみに、俺は家事全般、大得意。洗濯も掃除も大好きだし、冷蔵庫の残り物でパパッと美味しいものを作れるスキルもありますよ」 「ほんとに? すごいな」 「サバイバルゲームに参加したら絶対優勝できる自信ある」  妙なことで胸を張る男は、「ね、ね」と顔をのぞき込んできた。 「よかったらこれから試してみません? 家にちょろっとお邪魔させてもらって、俺を臨時のハウスキーパーとしてこき使ってみませんか。絶対、満足すると思います」  天城が意味深な目つきをよこしていたら、警戒していたと思う。  しかし、御影の疑惑をふわりと溶かすような笑みに、強がっているのがなんだかばかばかしくなってくる。 「ただ働きさせるのはいやなんだが……」  横目でちらりと見ると、「じゃ、夕食を一緒に食べましょ」と天城が言う。 「いま、冷蔵庫になにが入ってますか」 「豆腐かな。あと、たまご」 「もうバッチリ。そこに夏野菜とお肉を足しましょう。さっぱりした味つけだけど、夏バテしないようなメニュー、作ります」  うまく乗せられている気がするが、無碍に断る気分でもない。  仕方ないなという顔をする自分に忸怩たるものを感じながら、御影は「適当でいいからな」と苦笑して席を立った。

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