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第8話

「幼いころに両親ふたりとも病で亡くしたんだ。高校卒業まで施設で育ってきたから、普通の暮らしというものがあまりわからなくて……知識はあるけど、当たり前の家庭に育ったら身につく教養はないと思う。そこは恥ずかしいが」 「――あなたに恥ずかしいところなんかひとつもない。素晴らしい方です」  噛み締めるような天城の声に、頬がじわりと熱くなる。 「先輩ほど凛として、芯が強い方はなかなかいません。食べ方だってすごく美味しそうで、箸使いも綺麗だった」 「食育に力を入れていた施設だからかな」  箸の上げ下げやお椀の持ち方をひとつひとつ教えてもらっていたころは面倒だなと思うこともあったが、いまこうして大人になり、天城みたいな男に褒めてもらえるのは嬉しい。  病を背負った父親を守る点では天城も大変だろうが、温かい家庭に育ったんだろうなというのは見ていてわかる。  言葉遣いも、おいしそうにごはんを頬張る姿も見ていてすがすがしい。ほどよく厳しく、いつも笑いの絶えない家族だったんだろうなと思うと少し羨ましい。  ぽつりとそうこぼすと、微笑む天城が軽く肩をぶつけてきた。 「大人になってからでも楽しいことはいっぱいありますよ」 「たとえば?」 「少なくとも俺はいまあなたと一緒にいて、人生でいちばんわくわくそわそわしてる。先輩のこと……ほんとうにずっと想ってたから。春の夜にバーで出会ったときから、ずっとあなたの虜です」 「そんな、たいしたもんじゃない。たまたま私の変わった身体に惹かれているだけだ」 「そこまで即物的じゃないですけど」 「じゃ、いまは欲情しないのか。私とふたりで密室にいてもべつに興奮しないのか」 「……あの、もしかして誘ってます?」 「違う、いまのは言葉のあやだ。単純に気になっただけだ」  冷静な御影に、天城はほっと息を漏らす。「振り回されるばっかりなのって楽しい……」と呟く天城にちょっと顔が赤らんだが、ビールを呑むことでごまかした。  横顔に視線を感じる。張り付くような天城の視線にじわじわと熱がこみ上げてくる。少しでも気を抜くとなんだかおかしな雰囲気になりそうだ。でも、このゆったりした時間も大切にしたい。  手を伸ばせばすぐに天城は答えてくれるだろうけど、まだ知り合ったばかりだ。それに、会社の後輩を単なる性欲のはけ口にしたくない。 「さてと。そろそろ帰ろうかな。ごはんはおいしかったし、ビールも呑んだし」  腰を上げた天城に、「あ、ああ」と天城も立ち上がって空き缶を受け取った。 「もう帰るのか」 「はい、このままあなたのそばにいたら絶対ムラムラするんで。あの、ちょっと気になってることがあるんですけど聞いてもいいです? 胸……いまは大丈夫ですか?」 「とくには」  平然と答えたつもりだ。アンダーシャツを着るようになったと言おうかどうしようか考え、玄関先まで天城を送っていったところでその広い背中を見ていたら急に焦燥感がこみ上げてくる。  ――帰るのか。もう少しだけふたりきりでいたいのに。  もう少しだけ、その目で見つめてほしいのに。 「天城、ほら見てくれ」 「え? あ、あの、……ちょっと!」  靴を履きながら肩越しに振り返った天城はぎょっとした顔だ。  それも当然だろう。  言葉ですがることがどうしてもできなくて、御影は頭で考えるよりも先にぱっとTシャツとアンダーシャツの裾をまくり上げていた。  平らかな裸の胸を晒し、ぬるい空気が肌を撫でていく。こんなの、べつにどうってことない。見られるだけだったらいくらでも見せる。 「おかしなところはないだろう? ミルクが出たのはたぶん一時的なことだったんだ。バーで失態をおまえに見られて恥ずかしくて……つい身体が反応したんだと思う。不思議だな、いままでこんなこと一度もなかったのに。オメガの身体ってやっぱりちょっと不便だ」  重くならないように笑ったのだが、天城は顔をこわばらせて耳の先を真っ赤に染め、視線は天城の薄い胸板に釘付けだ。  あまりにまっすぐ見つめてくるものだから、ちりちりと皮膚が焼かれていくみたいで落ち着かなくなってくる。 「……やっぱり、私は変だろうか……」 「変です。じゃない、違う違う」  一度は強く言いきったものの、すぐに頭を横に振る天城が怖い顔をして、そろそろと両手を伸ばして御影の肩を掴んできた。 「変なのは俺。いくらあなたが素敵すぎるオメガでも、こんな真っ昼間に乳首を見せられても、お互い男なんだから、『へえ、ほんとだ。いたって普通の乳首ですね』って言いたいけど……ダメだよ、可愛くて……根元からふっくら盛り上がる乳暈はほのかにピンク色で、ちっちゃな乳頭が俺に向かってぷるんって誘うように揺れてるとこを見せられたら、ちょっともうダメですよね。どうにかなりそうですよ」 「あ、天城?」  唸る天城はうつむき、肩を怒らせている。 「耐えろ、耐えてくれ俺……合意のないえっちは絶対いやだ……俺は現代社会にフィットする男だ……ねえ先輩」 「はい」  真剣な声にシャツをまくり上げながら、ぴしっと背筋を伸ばした。なんだかまぬけな格好してるなと頭の片隅で思う。そろそろと手を下ろそうとすると、「だめ、下ろしちゃだめ」と制された。 「いまここで、俺があなたに触れたら怒ります?」 「……答えにくい。そもそもこのあいだはオフィスで触れてきただろ。あんなふうに流されたら私だって……」 「ですよね、流されちゃえば『バカな後輩のせいだ』ってなじれますもんね。それでもいいと思ってる。1000パーセント俺のせいにしていいと思ってる。でも、こころのどこかでは、あなたにもこの状況を望んでほしいって願ってるんです。厚かましいのは承知してるけど、いやだいやだって言われるより、『いい、すごくいい』って聞きたいから」  耳たぶが燃え上がりそうなほどに熱い。 「私がそんなに乱れると思ってるのか」 「感じやすい先輩なら絶対。俺の予想を越えてくると思います」  互いの主張がまったく噛み合っていない気がする。  だけど、彼の言うこともわかる。否定されてばかりでは、オラつく後輩でもさすがにしょんぼりするだろう。 「その気じゃなかったらここで俺を突き放して。だからって、社内での態度まで変えるわけじゃないので安心してください。ちゃんと仕事します。そこは俺もあなたも社会人」 「わかってる。ここで私が頷いたらおまえは一線を踏み越えてきて……拒んだら、もう二度と触れてこないんだな?」 「そう、です」  苦しそうな顔で首肯する天城を見つめた。  ――バカ真面目な奴。  ドがつくほどの真面目なのは自分のほうだと思っていたけれど、そんなことはない。いまだって衝動に任せて胸を晒してしまっているのは自分で、天城はじっと耐えている。  乱暴に快感を奪おうとしないあたり、天城の誠実さがよく滲んでいた。  からからに渇く喉が痛い。むりやり唾を飲み込み、御影は一度ぎゅっとまぶたを閉じてから、再度、天城をまっすぐに射貫く。  そして、前よりさらにシャツを上に引っ張り上げ、あばらが浮いているだろう胸を晒した。 「……私の乳首はどうなってる? 変じゃないか、ちゃんと教えてくれ。……触っても、いいから」

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