11 / 16
第11話
抱き合って、恋を囁き合って互いの想いを打ち明けたら、生涯しあわせになれる。
そう信じて疑わなかった。
天城も熱に浮かされたように繰り返し繰り返し、「好きです」「俺から絶対に離れないで」と言い続けた。
だけど、急激に訪れた幸福には大きなひびが入りやすい。しあわせに酔いしれる毎日でもきちんと仕事して、社会人としても日々をこなしていたのに、神様は意地悪なのかもしれない。
ある日ふと気づくと、御影は胸からミルクが滲み出さないよう、毎日厚手のアンダーシャツを着るようになっていた。
――ヒートの時期じゃないのに。出たとしても、一時的なものだと思ってた。
会社でバレたらどうしようと気が気ではなくなった。
胸の秘密を知っているのは天城だけだ。オメガの存在は世間に認知されているが、胸からミルクが出るオメガはかぎりなく少ないはずだ。
御影も聞いたことがないし、かかりつけの医師も、『論文は読んだことがありますが、実際に診察するのははじめてですね』とちょっと驚いていたっけ。
ずっとミルクが出続けるのか。怖じけた天城はすぐに仕事帰りにかかりつけの医者に診てもらった。
ひととおりの検査を終え、主治医は首をひねる。
「血液検査には問題ないし、所見でおかしなところはないんですよ。ヒートも三か月ごとに来ているようですしね。ただ、ミルクがずっと出るのはちょっと不思議かな」
「なにか病気だったり……します?」
「うーん……」
四十代とおぼしき医師は妙につるっとした顎を指で撫でさすり、宙を見据えていた。
その沈黙に一瞬不安になったが、「それはないでしょう」と断言されて、思わずほっと息を吐いた。
「仕事柄、開発中の抑制剤をひそかにテストしているんです。その副作用があるのかなとも考えたんですが」
「メールで送ってくれた成分表を見ましたよ。考えにくいというのが僕の判断です。新薬がもたらす影響がゼロとも言いきれませんけどね。治験の期間が短いなら重篤な作用が出る前とも考えられますが、僕の経験上、御影さんの新薬でミルクが出るようになる副作用はないはず。あれによく似た成分の薬をチェックしたことがあります」
「だったら、やはりホルモンバランスの乱れなんでしょうか」
「おそらく。心配なようなら精密検査もしましょう。オメガ男性だといろいろ思わぬ症状があるものなんですよ。不思議なことにね。女性オメガだと当然ある症例が、男性オメガになかったりするぶん、御影さんのようにミルクが滲んでしまうということもあります。今日のところはホルモン治療をしますから、それで様子見しましょう。精神的なものも関係していると思いますよ」
「というと?」
パソコンに表示されたカルテを見やる主治医の横顔は真剣だ。めったに笑わず、まばたきも少ないところが最初は怖かったけれど、数年通ううちにそれが彼の仕事に対する真面目さなのだと気づいた。以来、身体に異変が起きたときはなんでも話すようにしている。
「僕はメンタル専門ではないので突っ込んだことは言えませんが、オメガは運命の番によって精神と身体のバランスが大きく崩れることはご承知ですよね。正直、アルファの僕から見ても運命の番っていったいなんなんだと疑問が残りますよ」
「そういう……ものなんですか。でも、アルファは選択権があるでしょう。番になってもそのオメガに飽きたら関係を切って、他のオメガを選ぶこともできるでしょう? アルファのほうが絶対に強いんだって思っていました」
「個人差もあるでしょうけどね。どのアルファとどのオメガが結ばれるのか数値に表れるわけではないし。恋愛感情のひとつだと言ってしまえばそうなんですが、これだけ激しい反応を見せるのはアルファとオメガだけなんです。アルファとベータじゃこうはならない。アルファ同士、オメガ同士もわりと穏やかです。理屈じゃなくて、やっぱり魂が引き合っているとしか説明のつけようがない関係もあるんですよ」
眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、医師は可笑しそうに肩をすくめる。いたずらっぽいその表情がめずらしくて、こころが和む。
「きっといまの御影さんにも運命の番がいるということじゃありませんか。プライベートなことにはこれ以上立ち入りませんが、かたちが定まらない魂が揺さぶられるからこそ、ミルクが出るのかも」
「なんか、生きてる自分で実験している気分です。……番候補、いることはいるんですが」
「支障がありますか?」
口を濁した御影に、医師はカルテになにごとか書き付けながら訊ねてくる。真正面から見つめてくるような威圧感ではないことにほっとし、「内緒にしてもらえますか」と念を押した。
「もちろんです。患者さんの情報はどこにも出しませんよ」
「その番、会社の後輩で。そもそもの出逢いもちょっと不思議なんで、あまりちゃんとした恋愛じゃないんです。だから他人に相談しづらくて」
「なるほど。ちなみに、もしよければその出逢い方ってどんなんですか。僕もこういう仕事してるとなかなか出逢いがなくて」
「お医者さんだったらそれだけでモテるんじゃないですか? ほら、よくドラマや映画でも、合コンに参加するお医者さんはモテモテですよね」
「そんなのはフィクションか、どこかべつの世界の神話です。不規則な生活で、急患を診ることもあるから、デートの約束もドタキャンになってしまうことがあって……三年前に恋人に振られて以来、ちょっとびびってるんですよ。僕みたいなのはもう一生誰ともつき合えないんじゃないかって不安なんです」
医者の不養生というのは、恋にも当てはまるのだろうか。洗練された外見だけを見れば恋も仕事も順調そうなアルファの主治医なのに、その口調は意外にも弱々しい。
だから御影も微笑み、訥々と天城との出逢いを教えた。
とあるバーでアルファに絡まれていたところを天城に救ってもらい、家に帰ったらなぜかミルクが滲んでいた――そして三か月後、その年下の男と会社で偶然再会したのだと明かすあいだ、主治医は何度も頷く。
「興味深い点がふたつあります。ひとつはやはりミルクの出方。おそらく、通りすがりのアルファに絡まれたショックもあったかと思うんですが、理性よりずっと深い本能レベルで御影さんはその年下の彼に反応したんじゃないでしょうか。頭より身体のほうが先に反応するってよくあります。その後の性行為はむりやりではない?」
「……はい。私もちゃんと彼に応えました。だから恥ずかしいんですが」
「性行為を理性で制御できる人間なんていませんよ。本能がなければ快感に浸ることもできません。だから、御影さんの反応は正常です。それからもうひとつ気になる点ですが、これは単なる憶測です。その年下さんは、バーで出会ったときからあなたに惚れ込んで、あとを追いかけて御影さんの勤め先を掴み、再就職したとか。ストーカーっぽいですが」
一瞬胸がひやりとしたものの、怖いという気分は不思議となかった。逆に、他人から見てもやっぱりそう感じるのかとおもしろくなってしまう。
「第三者にこの話をしたのは初めてなんです。彼を危険視すべきだと思いますか?」
「御影さんはどう思います? 触れられていやな感じはしませんでしたか」
「……なかった、です。むしろ、自分がおかしくなったんじゃないかって思うほど積極的になる場面もあって」
照れながら言うと、主治医は真面目な顔で首肯する。
「ミルクが出るってとても繊細なことなんです。少しでも精神的な負荷がかかると、出が悪かったりするんですよ。ということは、いまちょっとセーブできないのは、その彼に惹かれている真っ最中だからとも考えられますね。気持ちが落ち着けば自然と治まる気がします。出るときは出る、出ないときは出ないというように」
「出るときって、たとえば?」
「その相手の子どもを産みたいと思うときですね。性的な欲求だけでミルクが出るとは考えづらいので」
天城の子どもがほしいと思っているのか、自分は。
彼とのセックスにハマってミルクが出るようになったともし診断されたら、それはそれで恥ずかしいが、まだ見ぬ未来を先取りしたい自分を言い当てられた気がして、耳たぶがちりちりと熱い。そんな御影に気づいたのだろう。主治医はくすりと笑う。
「予想ですよ、あくまでも。違う可能性もおおいにあります。どれにしても、心配するような大病にはつながりにくいと僕は考えます。精密検査の予約、入れていきますか?」
考えすぎても身体に毒だろうが、心配性な自分としては念には念を入れておきたい。「ぜひ、お願いします」と御影は頭を下げた。
ともだちにシェアしよう!

