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第12話
胸からミルクが滲む症状についてはあまり深く考え込まないように、と主治医から言われて数日は仕事に熱中していたが、休憩ちゅうにふっとワイシャツの上からそこに触れ、うっすらと湿っていることに気づくと神経が一気にヒートアップする。
やっぱり変だ。自分の身体がおかしいというのではない。アルファやベータに比べたら揺らぎの多い体質で、それを呪ってもしょうがないことはよくわかっている。わかっているからこそ、不安定な状況が好転する抑制剤を開発したくて、製薬会社に入ったのだ。
自分を被験体にしてまでも、ききめのいい薬を作りたい。そうすれば、あとに続くオメガがすこしは楽になるんじゃないだろうか。オメガは絶対数がすくないぶん、心身の不調を理解してもらいづらいいきものだ。エリート層が多い医師もやはりアルファが多く、オメガの身体を診るのがアルファの医師、ベータの看護師というパターンはすくなくない。
だからこそ、見知らぬオメガの役に立ちたかった。いま開発している抑制剤が医師の判断で処方され、移ろう体調で悩むオメガが服用して身もこころも落ち着くのであれば、自分の身体を犠牲にしてもいい。
こころからそう思うのだが、ひとり耐え忍ぶのはやはり限界がある。
こうなったのはアルファのせい――天城のせいだ。
春の夜のバーで愚かにも行きずりのアルファに抱かれようかと考えた自分が、いちばん悪い。わかっているけれどそれは棚上げし、調子よく声をかけてきたアルファのことも忘れ、助けてくれた天城に八つ当たりしたくなってしまう。
だって、彼が触れてこなかったら、自分は絶対にミルクなんて出していなかった。
こんなのはただの逆ギレだ。どういう理由だろうと変化したのは自分の身体で、春先に出会った天城にすべての責任を擦り付けるのはさすがにどうかしている。
――いくらなんでもおとなげない。彼に当たり散らすぐらいなら、飲んだくれて失態を晒したほうがどんなにましか。
自分に何度も言い聞かせたが、やっぱりどう考えても最後は身体の奥の奥まで触れてきた天城の熱を思い出してしまう。
とにかく、すこしでもいいから天城と話がしたい。
自制心には自信があるから、家に招こう。ふたりきりの空間で天城の雄っけを感じても、べつになびかない。ちゃんと落ち着いてちゃんと話し、なにか適当に食べ、早い時間帯に年下の彼を家に帰そう。
おのれに自制心があるなんて思った時点で大きな勘違いをしていると思わなければいけなかったのに。血迷っている自分に気づく前に、かかりつけの診察帰りに御影は天城にスマホからメッセージを送り、「今度の土曜、うちにこないか」と誘っていた。
すぐに既読マークがついて、「もちろん行きます。なにかお土産持っていきますね」ときたので、「なにもいらない」と打ち込んだ。
約束した日は朝から早起きし、部屋じゅうを掃除した。窓を全開にして換気し、フローリングの床はいつもならモップでさっと拭くだけで終わるところを、今日は徹底的にぞうきんがけをした。
約束の時間ぴったりにやってきた天城は笑顔全開で、「おみやげ。俺の好きなブックバーだけで販売してるクラフトビール、持ってきました」と白いビニール袋を差し出してくる。
「いいのに、気を遣わなくても」
「ここのブランド美味しいから、先輩と一緒に呑みたくて。冷えてるやつ買ってきたから、一緒に呑みましょ。あとね、そのバーで人気のいぶりがっこのポテサラと、チキンローストも買ってきました。先輩、おなか減ってます?」
「減ってる。おまえがきたらピザでも取ろうと思ってた」
「だったらこれ食べましょうよ」
「いろいろ買ってきてもらって悪いな。とにかく上がってくれ」
「お邪魔しまーす」
嬉しそうに玄関で靴を脱ぐ天城はボディバッグを下ろし、ソファにすとんと腰を下ろす。それから、ビールをグラスに注ぐ御影を目にして慌てて腰を浮かせた。
「俺がやりますって。そういうのは後輩の仕事」
「酒を注ぐのに先輩も後輩もないだろう。いいから天城は座れ。そうだ、ポテサラがあるなら、バゲットを切って出そうか。このあいだ、近所の評判の店で一本買ったのはいいけど、あまらせてたから。味は保証する」
「じゃ、遠慮なく。バゲットって切って冷凍しておけば、いつでもリベイクして楽しめますよ。味はちょっと落ちるけど」
「今度はそうする」
バゲットが乾燥する前でよかった。切り口を確かめてからナイフで切り、天城が持ってきてくれたポテサラやチキンローストもうつわに盛ってテーブルに出した。
「旨そうだ。いただいてもいいか」
「どうぞどうぞ。いっぱい食べましょう」
冷えたクラフトビールの瓶をカチンと触れ合わせ、半分ほど飲み干す。普段よく呑む苦みの強いビールより、爽やかでフルーティだ。軽い口当たりなのも新鮮で、昼間なのについ呑みすぎそうだ。
天城が買ってきてくれたクラフトビールは全部で六本ある。二本めに手を伸ばすスピードが速いなと自分でも気づいていたが、やはり緊張していたのだろう。ポテサラをつまみつつ最初は天城と笑いながら世間話に興じていたが、しだいに視線がうろうろしてしまう。
なにがきっかけということはない。天城を部屋に招いたこと自体、間違いだったと気づいた頃にはしたたかに酔っていた。
「天城は私によくしてくれるが……オメガがめずらしいだけだろう。いままで、まわりにいなかったか」
「いましたよ、数人だけど。でも、全員、先輩ほど目を惹くひとじゃなかった。やっぱり御影さんは俺の運命の――」
「やめろ。私はおまえが言うほどできた存在じゃない」
感情を制御できなくなってきている。まずい、まずい、このままではよけいなことを言ってしまう。天城を傷つけてしまうかもしれないから口を閉じろ。さっさと切り上げて彼を帰らせたほうがいい。自分のためにも。
賢い理性はかたちばかり整っているが、本能の熱でたやすく溶け崩れてしまう。見た目は綺麗でも脆い砂糖菓子に、強烈な炎を浴びせてどろどろに溶けるのを茫然と眺めているこころもちだ。
どうして天城相手にはこんなにも簡単に崩れてしまうのか、自分でも情けなくてしょうがない。
「やめてくれ。今日だって天城を呼んだのは、おまえに腹が立つからだ」
「お、俺に? どうしました?」
仰天している天城だが、すぐさま、「ごめんなさい」と頭を下げてくる。その従順さを怒りたくなるが、それこそ嫌われそうだ。
大きく息を吸い込み、「……悪いのは私なんだ」と呟く。
「天城と知り合ってから、いろんなことがうまくいかない。自分のなかにずっと台風があるみたいなんだ。振り回されてつらい。私はこんなに感情的じゃないはずなのに、天城に触れられると落ち着かない。でも、そういうのはお互いにいまだけだと思ってる」
「どうして。どうしてそんな寂しいこと言うんですか。ずっと一緒にいましょうよ」
邪気のない、か細い声で呟く天城がうつむき、手のなかの瓶を弄り回す。
「始まり方は確かに先輩が気に入るようなものじゃないかもしれないけど……俺は、あのときバーで先輩に会えてよかった」
「経験のないオメガが男あさりしようとしていたんだからな。おもしろくておもしろくて、私自身、いま思い出しても反吐が出そうだ」
きつい言葉で自分を見下げ果てたら、よけいに天城がショックを受けた顔を向けてきて胸が痛い。口が悪いオメガなんて放っておけばいいのに。年上で、同じ会社の先輩だというだけでも厄介だろうに。
しばし互いに口を閉ざしていた。このまま気まずい時間が流れ、やがて痺れを切らした天城が帰るだろうと踏んでいたのだが。
「御影先輩は――御影さんは、……なにか勘違いしています。俺、そこまで浅はかじゃないですよ」
天城が座り直し、目元に力を込める。
低いその声に一瞬びくりと身体を震わせたが、自分の部屋で小さくなるのも悔しくて、御影は胸を張った。ただの虚勢でしかないこともよくわかっている。
なんだかもう、ぜんぶめちゃくちゃだ。話せば話すほど自爆しそうで怖い。
「誰だって、最初のアプローチはちょっとへたくそですよ。俺だってそう。いまじゃ黒歴史として葬ってる過去があります。あなたが知ったら三日三晩笑って泣いて、最後に爆笑するぐらいのネタ、俺だってたくさん隠し持ってるんですから」
妙なところで張り合ってくる後輩をちらっと見やると、生意気な感じで顎を少し上げた彼と視線が交わった。
「そんなに、か」
「そんなにですよ。恥ずかしいのは先輩だけじゃないんだから。……でも、そういう経験があったからこそ、いまの俺は御影さんと出会えて、危機から救う勇気にも恵まれたんだと思う。あなたがもし、あの場で助けは求めてなかったと断じるなら、それはもうぜんぶ俺の勘違いだってことで謝ります」
「そういうんじゃ……」
今度はこっちが声が掠れた。
天城の潔い姿勢に、後悔が波のように押し寄せてくる。どうしてこう、自分というのは無様なのだろう。
年齢ぶん、大人として天城に格好いいところが見せられたらいいのに。
ひとつもいいところがないとくちびるを噛み、だったらもう、いっそ四散するまでみっともなくなろうかと獰猛な気分になってくる。
いっそ、天城が激怒してくれたらすっきりするかもしれない。
「……もういいよ。どうやったって私は天城が納得するタイプじゃない。これまでも、これからも。いいところがもしあるとするなら、この後ろ向きな性格だけだ」
「確かにネガティブ」
くすっと笑う天城が、「でも、そういうところも含めて好き」と呟いた。
「後ろ向きっていうことは、慎重でもある証だと思います。俺みたいな考えなしの向こう見ずじゃなくて、御影先輩はひとつひとつのステップが丁寧なんですよ。だからたまに臆病にもなるし、ときどき一線を踏み越えて大胆にもなるんだろうけど。そのギャップがたまんない」
「……おまえ、言ってることが変だぞ」
「よくわかってます」
そこでビールを飲み干した天城は、「お代わりいただきます」と立ち上がり、勝手に冷蔵庫を開けて新しいビールを取って戻ってくる。
「バーで出会った夜、なんて綺麗なひとなんだろうって見惚れました。外見はもちろん無視できませんけど、それよりなにより、御影さんの目を見ると身体に電流が走るんですよ。ビリビリする。いまもそう。そんなひとに出会ったのは初めてなんだ」
「それが――運命の番だということか?」
「俺はそう信じてる」
確信を込めた声をどう受け取るべきか少し迷った末に、訊いてみた。
「それがもし、勘違いだったら? 一過性のものだったらどうする。いまは頭に血が上っているから番だ恋だと浮かれているかもしれないが、私はほんとうにたいした人間じゃない。きみにはもっとふさわしい相手がいると思う」
「御影さん……」
傷ついたような顔を視界の隅に置き、「でも」と呟いた。
「出逢いを考えれば、私が臆するのも理解してほしい。生きているあいだに一度ぐらい……性体験をしておきたくて、行きずりの男に身を任せようとして失敗したところをきみに救ってもらった。嬉しかったけど恥ずかしくて、いま思い出しても死にたくなる。きっと、きみと一緒にいる以上はこの恥の感覚をずっと抱えていくんだと思う」
「そういうの、いや、ですか? 俺だったらべつの記憶に塗り替えられますよ」
その声がなんだか妙に艶っぽかったから、御影は空になったビール瓶をテーブルに置いた。これ以上、アルコールに逃げるわけにはいかない。
「あのな、今日来たのは話しておきたいことがあるからなんだ。……ミルクが止まらないんだ」
「ミルク……胸の?」
察しがいい男に耳たぶがちりちりと熱い。うなだれて、膝の上でぎゅっと握りこぶしを作った。
「きみと出会った夜からずっとそうだ。このあいだ抱き合ったあとからは、ずっと毎日滲んでる。いったいきみは、私の身体になにをしたんだ? 私を変えてどうしたい? 先に言っておくが、精密検査までした。異常はとくになくて、ただただオメガとしての本能が走っているらしい。きみのせいじゃないのか」
言いがかりも甚だしいが、天城はじっとおとなしく聞いている。それから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「できることならあなたのミルクをいますぐ口にして、俺を永遠の魔法にかけてください。天城さんしか目に映らない恋の魔法をかけて。なーんて、とっくにそうなってるんだけど。変わるのは俺ですよ、天城さん。あなたはそのままでいい。俺、あなたのためならいくらでも変化しちゃう。カボチャの馬車にもなるし、四頭立てのネズミにもなりますよ」
「……バカか……、きみは」
予想を裏切る言葉に呆れ果ててしまった。バカだバカだ大バカだと思っていたが、ここまで突き抜けているといっそ尊敬する。
いまの話を聞いていたのかと胸ぐらを掴んで揺さぶってやりたいが、このおおらかさにはどこか救われる。
突き詰めすぎてもよくないと、天城もわかっている。考えても答えが出ないことを延々考え続け、打破できる可能性はないかと悩むのが自分の性質だとしても、それは仕事だけに生かすべきだ。
「自分でなにを言ってるのか、わかっているのか」
「わかってます。御影さんのこと大好きだもん」
ほがらかに笑う天城に呆気に取られた。ここで明るく笑えるなんて、ちょっと怖い。
「バーで出会ったのは運命だよ。他のアルファなんかにあなたをくれてやったりしない。俺だけが愛して、がじがじ噛んで、ミルクをちゅぱちゅぱ吸って……ねえ、なんでもう耳真っ赤?」
「恥ずかしいことばかり言うからだ! さっきまで真面目な話をしていただろうが!」
耳元で囁かれたのが照れくさくて怒鳴ると、素早くソファに組み敷かれた。
「俺が移り気じゃないことを悔やんで。これでも、一度執着するとまっしぐらなんだ。初めて目が合ったときから惹かれていて……会社のロッカールームで触れたときのことは何度思い出しても鼻血が出そうだし、このあいだ最後までできたときは俺、翌日夢精したぐらいですよ。あなたの身体の揺らぎが俺のせいなら、俺のこころがぐらぐらするのはぜんぶ天城さんのせい」
「わ、私のせい、なのか? ぜんぶ?」
「そう。俺をこんなに狂わせたのは天城さんのせいだ。俺をがんじがらめにして、こころを奪い続けて罪なひとですよね」
ぐっと体重をかけてのしかかってくる年下の男は鼻先が触れ合う距離で微笑み、「って、責任転嫁しちゃいけないか」と言う。
「勝手に好きになったのは俺。強引に迫ったのも俺。いまもあなたのこころを無視して、強引なことしてるかも。……離れたほうが、いいですよね」
そう言って身体を引こうとする男の肩を慌てて掴んでしまった。
「待て、そんなことは言ってない」
身を引かれると弱い。
「じゃ、そばにいても……いい?」
「いい、けども」
「触ったり、キスしたりしてもいい? 俺、ただあなたのそばで息してるだけでも嬉しいけど、できればそれ以外のこともしたい。先輩の胸にミルクが滲むようになった責任を取らなきゃ。それってアルファの俺があなたの深いところに入ったからなんでしょう?」
囁きながら身体を擦り寄せてくる男の甘い声に、四肢の自由が奪われていく。この声は反則だ。卑怯だ。なんでも言うことを聞きたくなってしまいたくなるから困るのに、それでもいいとすら思う。
ここにとんでもなく強い魔法使いがとつぜん現れて、ふたりまとめて魔法にかけられてしまえばいいのに。天城しか見えなくなる恋の魔法だ。お互いにおかしくなれば、どんな痴態を晒しても恥ずかしくない。自分の中から羞恥心が消え去り、天城もただただむさぼることに徹してくれれば、互いの性欲を処理するだけで、色気や艶っぽさは必要なくなる。
そう思うのだが、どうしても消えない恥ずかしさは人間に生まれついたからなのか。オメガで、胸からミルクを滲ませる身体だからなのか。
「……ぜんぶ……、しても、いいけど……」
「ん?」
「そういうこと、いちいち言わなくていい。恥ずかしいから」
「むりやりしてあなたを傷つけたくないから、了承を取りたいんです」
「合意したらなんでもしていいと思ってるだろ」
「バレました?」
むっとしても、天城は可笑しそうに笑うだけだ。御影の顔じゅうにキスし、じんわりと熱を持ち始めた額にかかる髪をかき上げてくれた。髪の根元をやさしく擦り、そっとかき分けてくれる指にしだいにぞくぞくしてきて、「――は……」と息を漏らす。
それがひどく甘やかに聞こえたものだから、自分でも驚いた。
身体を重ねているだけなのに、もう欲情しているのか。三か月ごとの発情期よりは軽いけれど、間違いなく天城を渇望している。
熱いくちびるが御影の鼻先を掠め、頬骨をすべる。天城も彼の広い背中に手を回して抱き寄せ、背中の深い溝に指を走らせた。しっかりした骨の感触を感じるだけで、喉がからからに渇いていく。
「……和姦って、いまどき流行らないぞ」
「ですよね。ちゃんと確認します。やめます? 続けてもいいです?」
指先で喉元をくすぐられると、まるで猫みたいにごろごろと唸りそうだ。
やさしく抱いてもらいたい反面、今度こそ離れられないように激しく揺さぶってほしい。
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