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第4話◇桃川春季③
「おはようございます」
春季は普段通り挨拶をして、営業部にある自分の席へ向かう。どうやら蓮は、まだ来ていないようだ。少しホッとして席に着いた時だった。
「おはよう、桃川」
「き、霧島……おはよう」
気を抜いた隙をついたように、背後から声を掛けられて、思わずどもってしまった。「昨日は迷惑かけてごめん。酔って記憶がないんだ」そう言おうと思っていたのに、なぜか口から出てこない。
なにか言わないと、と焦っていた春季に、蓮は自然な様子で話し掛けてくる。
今日の仕事の予定の話になったときには、蓮は昨夜の出来事をなかったことにしたいのかもしれないと、春季は思った。
ホッとした反面、寂しくなってしまった。蓮にとっては、その程度のことだったのかと思うと、自分の報われない想いがしくりと傷んだ。
春季は気を取り直して、仕事の話に集中する。せめて、仕事仲間として頼りになる相棒だと思われたかった。
「今日の予定はこんな感じだな。例の案件、午後にクライアントから連絡くるはずだから、資料の最終確認よろしく、桃川」
蓮の声はいつも通り落ち着いていて、春季の胸にチクリと刺さる。昨夜の熱っぽい視線も、ネクタイで縛られた手首の感触も、まるで夢だったみたいだ。
春季はデスクの資料を手に取りながら、平静を装って頷く。
「うん、わかった。これ、昨日のデータも追加で入れておくよ?」
声が少しかすれてしまった気がして、春季は軽く咳払いをした。蓮はパソコンの画面を見ながら、いつもの調子で答える。
「さすが桃川。抜かりないな。そうしてくれるか?」
「了解」
蓮はチラリと春季を見て、目を細めて笑った。春季の好きな表情だ。思わずキュンとする胸に、不自然にならないように視線をノートパソコンへと向ける。
営業部は朝からざわついている。電話のベルが鳴り、前の席の先輩がクライアントと笑いながら話している声が聞こえる。
春季は画面に視線を固定して、数字をチェックするが、どうしても隣の蓮を意識してしまう。いつものようにデスクで書類をパラパラめくり、時折スマホを手に取ってクライアントに確認をしている。
春季は普段通りの空気感に気を取り直し、集中して資料をまとめていると、蓮が隣から椅子ごと近づいてきた。
「そういえば、プレゼン資料のレイアウトを少し見直そうと思ってるんだ。時間ある時でいいから確認してもらえるか?」
蓮に肩に手を置かれて耳元で囁かれる。春季はゾクリとした。蓮の匂いがわかる距離だ。一気に昨夜の記憶を引き出される。春季は耳が赤くなってしまったのがわかった。
「だ、大丈夫。少し待ってて」
「サンキュー」
春季の声は少し震えてしまったが、蓮は普段通りだ。いや、少し距離が近く感じるのは気のせいなのか。
とにかく仕事中だと、自分に言い聞かせて、蓮のノートパソコンを覗き込む。いつもながら見事な出来だと思う……が、少し気になる部分を見つけた。
「ここ、もう少し表現を柔らかくしたほうがいいかも」
「どこ?」
「ほら、ここのところ」
一瞬、画面を見るために顔が近付いたが、平静を装って、春季は画面に指をさしてみせた。
「確かに、少し堅すぎたか……こうすればどうだ?」
「うん、良いと思う」
「よし、これでいこう。やっぱり桃川は頼りになるな」
「霧島がいてこそだよ」
蓮の言葉に春季は自然と口元がほころぶ。蓮に褒められるのは嬉しい。午後もそうやって、普段通りに過ごしたのだった。
終業時になると金曜だからか、みんな解放された空気感で帰る支度をしている。春季も早々に帰宅しようと、カバンを手にした時だった。
「桃川、ちょっといいか?」
「……霧島、なんかあった?」
春季は、もしかしてトラブルかと、こちらに合図を送ってきた蓮を見た。
蓮のあとをついて行って、パーテーションで仕切られた小会議室に入ると、ざわめきが小さく聞こえてくる。
蓮に近寄ると、春季の肩をグッと蓮に捕まれて耳元で囁かれた。
「今朝、俺のマンションに忘れ物して行っただろ?」
「えっ!」
そう言われて、春季は今朝のことを思い出した。そう、忘れ物はした……アレだ。
軽くパニックになっている春季に、蓮はスマホの画面をチラリと見せて春季の表情を確認すると、ジャケットにスマホをしまい込んだ。
「───っ!」
チラッとでもわかった、春季のいかにも事後という卑猥な姿に頭が真っ白になる。
「これから一緒にメシ食いに行こう……な?」
春季の肩をポンと叩くと、目を細めてちょっと楽しそうにニヤリと笑った蓮に、春季はビクビクしつつ頷いて、大人しくついて行くことしか出来なかった。
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