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第8話◇桃川春季⑥

 春季は週末、部屋の掃除と足りないものを買い出しに行き、忘れずにスーツをクリーニングにも出した。  食欲も戻ってすっかり元どおり、と言いたいところだが、蓮のマンションから帰ってきてから、少しもったいなかったかな? と思ってしまって、春季は赤面している。  絆創膏を貼る必要のなくなったちくびは、慎ましく元どおりだ。酔った日の感覚や、金曜の夜に蓮にキスされた感触を思い出すと、春季は甘いため息が出てしまう。 「霧島……好き」  口に出すと、春季はキュウンと胸が締め付けられる。蓮が本気で好きだと確信するだけだった。  蓮のことを好きだと自覚したのは、初めてコンビを組んで契約をとった時だ。  その前から無自覚に意識はしていたのだが、喜びから蓮が春季に抱きついてきたときに、すっぽりと腕の中に抱かれて、蓮の匂いを感じた瞬間、キュンとしたのだ。  高身長でがしっしりした蓮に抱き込まれて、乙女のようにときめきを覚えた春季は、それまで感じていた蓮への好意が恋心だと自覚した。 「細いな、桃川。壊しちまいそうだ。そうだ、今日は一緒にメシ食いに行こう!」 「う、うん」  それ以来、ことあるごとに、蓮は春季をご飯に誘うようになった。春季は仕事でも蓮と一緒にいられるように頑張った。それが今の二人の成績に繋がっているのだと思う。 「……蓮」  そっと名前を呼んでみると、頬が熱くなるのを感じた。春季は蓮に早く会いたいな、と思ったのだった。  週明け、春季はいつも通り出社すると、珍しく蓮のほうが先に来ていた。 「お、おはよう霧島」 「桃川、おはよう」  そう言って、蓮が笑顔で春季を見つめる。少し頬が熱くて、思わず視線を逸らしてしまいそうになるが、なんでもないふりをして笑顔で頷いた。 「桃川、今日のクライアントについて相談したいんだけど」 「いいよ。ちょっとクセがある人だからね。なにかな?」 「実は───」  春季と蓮は、今日のクライアントのところへ行く前の作戦を練った。春季の提案が採用されて、蓮が持ち前の話術で、気難しいと有名なクライアントを笑顔にして、契約を締結することができた。  二週続けて難しい契約をとってきた春季と蓮に、営業部はちょっとした騒ぎだ。部長も上機嫌で二人を手放しで褒めてくれた。他のメンバーも負けじと火がついたようだった。 「桃川、帰り一緒にメシ食おう! いいよな?」 「うん!」 「じゃあ、あの創作和食の店予約入れるぞ」 「今から予約取れるかな?」  蓮がスマホを操作すると、ニヤリと笑った。 「よし、半個室予約取れた」 「ホント!? 楽しみだな」  春季が喜ぶと、蓮が穏やかな表情で見つめてくる。その顔が春季の胸を跳ねさせた。 「桃川とコンビ組めて、俺は本当に幸せだな」 「それはオレのセリフだよ、霧島」  蓮の言葉に、仕事でもプライベートでも一緒にいたいと、春季は強く思うのだった。  後処理をしているうちに、終業時間になった。 「桃川、行こうぜ」 「うん」  蓮と春季は、みんなに挨拶をしてから予約した店へと向かったのだった。  予約した店に行くと、すでに多くの客がいるのか、さざめきが聞こえてくる。店員に案内されて、半個室に入ると、春季と蓮はメニューから食べたいものを選んで注文した。   「じゃあ、今日のすげぇ俺たちに乾杯」 「あはは、乾杯」  春季と蓮は生ビールで乾杯した。最初はアルコールを遠慮した春季だったが、蓮が普段はあんなに泥酔しなかったんだから、気をつければ大丈夫だと勧めてくれた。  確かに今までは、あんな風になったことはないのだから、少しは大丈夫だと、春季は飲むことにしたのだ。 「朝イチで桃川に気になっていたことを聞いてよかったよ。おかげで、今日はうまくいったようなもんだ」 「何言ってんの。あちらが悩んでるところに、霧島がものすごいタイミングで、スパンと一言で背中押したからだろ?」 「じゃあ、やっぱり俺たちがすげぇってことだな!」    悪戯っぽく笑って春季を覗き込んできた蓮が、もう一度グラスを合わせてきた。笑いながら春季は応じて、カチンとぶつけ合う。  出てきた料理も美味しくて、どんどん箸がすすむ。それを見ていた蓮が「食欲戻って良かった」と微笑んでいた。心配させていたのだと気づいて、もう大丈夫だと頷いた。 「桃川は、来週どこに行きたいかリクエストあるか?」 「霧島と出かけるなら、どこでも楽しそう」  春季はポロリと本音をこぼしてしまった。 「……ふーん? そんな可愛いこと言うと、マンションから出してやらねぇぞ」 「えっ?」  低く囁くように蓮が言った言葉に、春季はみるみる顔を赤くしてしまう。満更でもない春季の反応に、蓮はニヤリと笑って、どうする? と追撃をかけてくる。 「買い物してから……行く」 「そうだな。俺のマンションに、桃川の物があるのっていいな。買い物デートにしよう。決まり」  ものすごく勇気を出して言った、春季の勇気を込めた一言を、余すことなく拾い上げてくれた蓮に、胸がキュウンとした。本気で春季をプライベートに入れてくれるのかと、じわじわと込み上げてくる喜びに顔が綻ぶ。 「桃川は可愛いな」 「っ! 女じゃないのに可愛いなんて……」 「なんで? 俺、桃川のこと可愛いと思うよ」 「うー」  耳まで赤くして、顔を手で覆って俯いてしまった春季に、蓮の喉で笑う声が聞こえる。揶揄されたのかと顔をあげたが、そこには蓮の優しい表情があった。本当にそう思われているのだと、春季は実感したのだった。 「ここ、日本酒も充実してるよな。もっと飲みたいところだけど、明日も仕事だから次回来るときは週末にしよう」 「うーん、オレも気にはなるけど……」 「大丈夫。泥酔しても、俺がちゃんとお持ち帰りするから」 「き、霧島っ」 「俺ならいいだろ?」 「……泥酔しても、前みたいになるとは限らないだろ」  さすがに、確かに蓮が相手だったからだ……と思うがそれを口にできるほど、春季は肝が据わっていない。プイと横を向いた春季に、蓮の軽やかな笑い声が聞こえてくる。 「揶揄いすぎた。ごめんな、桃川」 「……誰にでもあんな風になるわけじゃないから」  春季が言えるのは、これが精一杯だ。  蓮が「そうか」と穏やかに返事をしてくれたのだった。                

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