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第13話◇桃川春季⑩

「なあ、桃川──」 「霧島。会社に帰ったら、早速課長に報告しよう。きっと、首を長くして待ってるよ」 「あ、ああ」  蓮が、春季の様子がおかしいことに気づいているのを見越して、仕事の話で遮る。  今は、この穏やかではない心の内に触れられたくはなかった。ちょうど座れた電車の中で、隣の蓮の視線を遮るように、目を閉じる。  とにかく、冷静になれるように今日の商談の成果と、これからやるべき仕事の段取りを考える。  フゥ、と蓮がため息をついた。呆れたのかもしれない。春季の心が怯えたように震える。  二人はほぼ会話のないまま、会社へと戻ると、課長に今日の成果を報告した。予想通り機嫌の良くなった課長に挨拶してから、自分の席に戻ると、今日のクライアントとの話から、今後の課題についてノートパソコンに打ち込んでいく。 「桃川……」 「なに? 霧島」  春季は画面から目を離さずに、返事をする。その声も、蓮を突っぱねるような壁があった。 「……いや。クライアントの言ってた件で───」  蓮は、一瞬言葉に詰まったようだったが、気持ちを切り替えて、仕事モードになった。春季もなんとか気持ちを持ち直すと、集中して終業時間まで過ごすのだった。 「桃川、話がある。コッチに来いよ」 「───っ!  あ、うん」  ガシッと肩を掴まれると、妙に圧の強い笑顔で蓮が小会議室に春季を連れていった。  以前、連れていかれた場所と同じところだ。あの時は、春季のいやらしい写真を見せられた。何となくイヤな予感がする。  中に入ると、カチリと鍵をかけた音がした。慌てて振り返るとすぐ近くに蓮が顔を寄せて強引にキスを仕掛けてきた。 「ん! んん!」  蓮の胸を押し返そうとするが、後頭部をガッチリ押さえられて、キスは深く春季を犯す。弱いところは、すべて知られているため、抵抗する力も弱まってしまい、徐々に蓮に溺れていく。 「ふぅん……んん」  すっかり溶けた甘い声になり、蓮に縋りつくようになった春季に満足したのか、そっと唇を離した春季と蓮の間を銀糸がツゥっと繋いでいた。蓮が春季の口もとに零れた唾液を舐めとると、切なげな表情で春季の両頬を挟む。 「春季、俺を見ろ。何があった? 俺から離れることは許さないからな」 「蓮……」  午後の春季の態度に、こんなに焦りと執着をみせる蓮をみて、春季は少し心が温まる。勇気を出して今日感じた不安を聞いてみることにした。 「蓮は週末、杉本さんと飲み会にいくの……?」 「春季が嫌なら行かない。俺の一番は、春季だから」 「蓮……。ごめんね、オレ、杉本さんが自然に蓮に触れたから、勝手に不安になってた。外ではデートの時ですら、オレは蓮に触れられないのに……って。」 「アイツは、みんなとの距離が近くて、誰にでもああなんだ。今度から注意する。不安にさせてごめんな」 「な、名前も下の名前で呼びあってるから、てっきり……」 「もしかして、元カノだと思った?」 「……うん」 「絶対ありえねぇからな。安心しろ」    春季は、キッパリと否定してもらえた安心感から、甘えるように蓮の胸に顔を擦りつけて、抱きつく。蓮の喉で笑う声が聞こえたかと思うと、耳元でこう囁かれた。   「……でも、俺も避けられて傷ついたから、お仕置きな? 週末は覚悟しておけ」 「えっ!」  蓮がニヤリと笑うと、春季の身体のラインをいやらしく撫でた。  ゾクリと春季の官能にスイッチが入りそうになった時に、蓮はパッと離れて「帰るか」と言った。そう言われて、壁を隔てた周囲のざわめきが耳に入ってきて、ここが会社だと思い出す。  春季は、慌てて着衣をチェックして大きく深呼吸をしてから、蓮のあとをついて席に戻ると帰り支度をする。  お仕置きという不穏なワードが出てきたが、週末は一緒にいてくれるということだ。ちゃんと素直な気持ちを言おう。春季はそう思った。 「桃川、一緒にメシ食いに行こう。どこにする?」 「あ、和食が食べたい」 「じゃあ、あの定食屋にするか」  蓮の誘いに乗った春季は、午後の重苦しい気持ちはどこかへ消えてしまった。    

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