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第十話 父と罪
その日は、学校の帰り道に夕飯の買い出しをするつもりだった。今日はスーパーで豚肉の特売日だ。だから豚バラ肉とひき肉を使って、アスパラの豚肉巻きと肉味噌を作る予定だ。
凜は肉が好きで、メニューに入れると喜んで食べる。今日は豚肉祭りにしようと、校舎を出た瞬間。
「
悠」
自分を呼ぶ声がする。振り返ると、そこには悠の生きる意味を与えてくれて、そして悠を捨てた男がいた。
「……父さん?」
「久しぶりだな、悠」
「なんで、ここに……?」
父は借金から逃げるために、女と姿をくらましたはずだ。それが、どうして今更悠の目の前に。
「お前と、話がしたいんだ。少し歩かないか」
「…………」
悠を置いていったことへの謝罪もなく、日常のように誘われる。悠は、それに怒るべきだったのかもしれない。
けれど。
「……う、ん」
大好きだった父を、怒ることなんてできなかった。
「父さんな、今ミウさんって人と一緒にいるんだ」
「……うん、手紙、読んだよ」
「ミウさん、早くに両親を亡くして、借金のためにキャバクラで働いてたんだ」
「……うん」
「父さんのこと、わかってくれて、必要だって、言ってくれるんだ。すごく優しくて、思いやりがあって、料理が下手なのに頑張ってくれて……」
「……うん」
どうして、知りもしない女性のことを聞かなくてはいけないのだろう。ミウという女性は、十八歳の息子を捨ててまで一緒にいたい人物なのか。
「ミウさんのために、父さん頑張りたいんだ。だから、悠にも協力してほしくて」
「協力……?」
「ああ。悠」
父の手が、悠に伸びる。ミウという女と一緒に住めと言うのだろうか。そんなこと、できるはずがない。
父は、寂しそうに笑って。
「父さんのために、死んでくれ」
「──え?」
どんっ、と身体を強く突き飛ばされる。悠の身体は車道に投げ出されて、地面と衝突した。
「っ!」
目の前に大型トラックが迫る。衝撃に負けて地面に座り込んでしまって、すぐに立つことはできない。
──俺、死ぬの?
突然目の前に現れた死の気配に、悠はどうすることもできない。クラクションが響いて、運転手の男が驚いているのが見えた。鉄の塊が身体に触れる、その瞬間。
「ユウちゃんっ!」
誰かが、悠の身体を強く引っ張った。
悠の身体が温もりに包まれる。トラックは何にも当たらずに通り過ぎ、悠の身体に痛みはおとずれなかった。
「……え…………」
「ユウちゃんっ、生きてる!?」
初めて聞く焦りを含んだ声。この温もりを、悠は知っている。
「り、ん……?」
振り替えると、凛が悠を抱き締めてくれていた。
凛、凛だ。凛が、助けてくれた。
「あ、あっ…………!」
父は慌てて逃げ走る。だがその行く手を、九十九が塞いだ。
「実の息子を殺そうとするとは、なかなか大胆な行動に出ましたね。そこまでして金が欲しいとは」
「ど、どけっ!」
悠の父は九十九を突き飛ばそうとする。けれど九十九はその手を捻って地面に叩き伏せた。
「ぐっ……!?」
「残念でしたね。彼は確かに貴方の息子ですが──同時に、佐神組の客人でもあるんですよ」
「は……!?」
「と、さん」
悠は、自分を殺そうとした男を見た。
「なんで、なんで……」
「っ、悠、父さん金がいるんだ! お前の生命保険が下りれば、どうにかなるかもしれないんだよ! ミウさんと生きるには、それしか……!」
「金の、ため……?」
「っ違う! ミウさんのためなんだっ!」
「何だよ、それ……」
嘘だ。信じられない。どうして?
父は、惚れた女と生きるための金を得ようとして、悠を殺そうと?
「父さんは、俺に死んでほしいの……?」
わからない。わかりたくない。父が、悠を救ってくれた、あの父が。悠の命より、金を、女を選んだ。
「俺、死んだ方が、いいの……?」
頬に涙が伝う。嗚咽が漏れてうまく喋れない。
「お、俺、俺は……」
──生きてちゃ、いけないの?
その言葉が出る前に、凜が悠を強く強く抱き締めた。
「ユウちゃん、あんなやつの言うこと聞かなくていいよ」
「り、ん……でもっ……」
「クズの言うことなんて、聞く必要ないから」
凜はいつもの何を考えているかわからない笑顔で、悠を捉えた。
「ね、今日のメシ、なあに?」
「きょ、うは……アスパラの豚肉巻き、と、キャベツのスープと、肉味噌……」
「うん、うまそう。おれそれ食いたいよ。だから死んでないで、おれに作ってよ」
「っ……凛っ、凛っ……!」
悠は、彼の胸に縋った。今まで会った誰よりも怖い男が、今は誰よりも優しく思えた。凛は、悠を肯定してくれる。生きていいと言ってくれる。凛の言葉だけが、悠のよすがだった。
「あ、ぁあっ……うわああああっ……!」
子どものように大声をあげて泣きじゃくる。凛の体温は、いつまでも悠を抱き締めてくれていた。
「くそっ、離せ! 離せよ!」
「黙りなさい」
「がっ!?」
九十九が悠の父の顔を地面に叩きつける。
「悠さんは組長の命の恩人です。それを殺そうとしたのだから、覚悟はできていますね?」
「く、組長……!? 悠、お前何したんだ! ヤクザなんかに擦り寄ってっ……!」
「黙れ」
凜の声が、静かに響く。その声には、殺意が宿っていた。
「ヤクザ以下のクズが、これ以上喋るな」
「あ……う……」
「銀、そいつ連れてって。逃げた分も含めて、しっかり金稼いでもらう。バラしてもいいよ」
「はい」
「ま、待ってくれっ! 悠が死ねば金は用意できるんだっ! だから頼む、待ってっ……!」
「ユウちゃんが死んだら、誰がおれのメシ作るんだよ」
──それは、悠にとって、唯一の光になりえる言葉だった。
「っ、り、んっ……!」
凜は、悠を必要としてくれる。悠の作る食事を、求めてくれている。誰よりも大好きだった父を喪って、その空いた穴に、凛の気まぐれな優しさが入り込んでくる。
「凛、凜っ……!」
悠は凜の胸で泣き続ける。今、凜に拒まれたら、生きていけない。
「ユウちゃん、行こ」
凜は悠を姫抱きにして、歩き出す。周りの視線が刺さったが、そんなことは気にならなかった。
──凛、凛、凛。
怖くて、優しくて、可愛くて、格好良くて。
この世の誰よりも、悠が欲しいものをくれる。
──ああ、そっか。俺は。
悠はその温もりに溺れながら、気づいてはいけない想いに気づいてしまった。
────凛が、好きなんだ。
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