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第十二話 何者にもなれない
「おらっ!」
がん、と古くさい事務所の壁に突き飛ばされる。凜の家までの帰り道に、突然車に押し込まれたと思ったら、悠はヤクザらしき男たちに取り囲まれていた。
「っ…………!」
「おい、口取ってやるから、大声出すんじゃねえぞ。逆らったら殺す」
乱雑に口に貼られていたガムテープを取られる。口の周りがひりひりと痛い。
「さて、じゃあちと話をしようか」
「…………っ」
三十代に見える男が、ゆっくりと悠の前にしゃがみこむ。
「俺ら小野本組って言ってなぁ。佐神組さんには手ぇ焼かされてんのよ」
やはり、この男たちはヤクザだ。身体ががたがたと震えてしまって、男たちがケタケタと嘲笑った。
「そんなにビビんな。言うこと聞いてくれりゃ手荒な真似はしねえ」
「言う、こと……?」
「おうよ。テメェが一緒に住んでる──赤鬼の情報、吐いてもらおうと思ってな」
「あか、おに……?」
「しらばっくれちゃいけねえな。佐神組の若頭の通り名だ。まさか知らなかったのか?」
男は楽しそうに笑う。──後ろにいる部下から、ドスを受け取りながら。
「ま、赤鬼のことじゃなくてもいい。組長でも組の内部情報でも、吐けること全部吐いてもらおうか」
悠の目の前の床に、ドスが突き刺さる。脅しなのか、本気なのか。それをはかることはできない。
「そ、そんなの、知らない」
「とぼけんじゃねえっ! テメェが事務所入ってんの見たやつが何人もいんだよっ!」
突然大声で怒鳴りつけられて、身体がびくんと跳ねる。
「なあ、どうせテメェ赤鬼の『イロ』なんだろ? 一緒に住むくらい仲良しなんだもんなあ? 事務所前でイチャついてるところもバッチリ見てる。男もイケるってのは初耳だが……ベッドの上で組のこと、色々教えてもらっただろ? な? 今すぐ思い出せよ」
どうやら男たちは凛と悠を監視していたようだった。イロ──ヤクザの言葉に詳しくない悠でも何を指しているのかわかる。つまりこの男たちは、悠を凜の愛人だと勘違いしている。
「愛、人……?」
もし、そんなものにでもなれたら、こんなに苦しい思いはしていない。凛と悠の関係は、言葉で表せるほど確かなものではなくて。
凜がいらないと言ったら、簡単に途切れてしまう、細い細い蜘蛛の糸。それに、悠は生きがいを見出して、情けなく縋って。
「は、は……」
馬鹿馬鹿しい。愚かとしか言いようがない。どうしてこんな不毛な恋をしてしまったのだろう。
「おい、何笑ってやがる」
「愛人でも、何でもない……。俺は何も知らない……。そうだよ、凜のこと、全然、何も知らない……」
生まれも、歳も、普段何をしているのかすら、知らない。知っているのは火を入れたトマトと肉が好きで、辛い物が嫌いだということくらい。
本当に、それだけの──ちっぽけな、関係だ。
「テメェ、ラリったのか?」
「俺はあいつの何でもねえよっ……ペットですらないんだっ!」
悲しい、悔しい、虚しい。悠は凛の何者にもなれない。悠が凜を求めても、悠が凜を求めることはない。だって彼は優しいけれど気まぐれで、ヤクザで、怖い男で、悠が与えられるものなんてひとつもなくて。
「だから、俺に何しても凛は来ねえよ!」
ぼろぼろと涙を溢れさせながら叫ぶ。悠は、想いを口にすることすらできずに失恋してしまった。
「……へえ、じゃあ何しても構わねえってことだな?」
「へ……?」
「人質にならねえんなら、適当に遊んで殺すまでだ。顔は悪くねえし、どうせ赤鬼に調教されてんだろ? どんなもんか確かめさせてもらおうか。おい」
「はいっ!」
周りの男たちが凛の洋服に手をかけて、びりびりと破いていく。肌が晒されて、悠は何をされるのかを察した。
「っ、や、やだ……! 違う、俺と凛はそんなんじゃっ……!」
「あの手の早い赤鬼が食ってねえわけねえだろ。好きなだけ楽しませてもらうぜ」
男が下卑た笑みを浮かべて、悠の下着に手をかけた。下着をずり下ろされて、衆目に性器が晒される。
「や、離せ、やめろっ……!」
「ったくうるせえな! 少し黙ってろ!」
バチンッ! と音がして頬に熱が走った。突然の痛みに身体が固まる。
「おら、股開け! 可愛がってやるからよ!」
男は、悠の足を割り開いて。
──嫌だ、凛、凛。助けて!
心の中で、そう叫んだ瞬間、部屋の扉が大きく音を立てて飛んでいった。
「っ、何だ!?」
見ると、そこには──来るはずのない、悠だけの恐ろしいヒーローがいた。
「り、ん……」
「…………ユウちゃん」
凛は悠を見つけて、それからヤクザたちを見回す。
「……二十ってとこ? いいよ、全員殺してやるから」
「あ、赤鬼っ! てめぇひとりでノコノコ来やがって、生きて帰れると思うなよ!」
拳を振りかぶってきた男を、凛は長い足を顔面に叩き込んでのした。
「ユウちゃんはさ、おれのなんだよね。手出したってことは、死にたいってことでしょ」
凛の声は冷ややかで──もしかしたら、怒っているのかもしれないと思った。けれどどうして。凛に怒る理由なんてないのに。
「や、やれ! 殺せっ!」
男の命令で組員が一気に凛に向かっていく。彼はそれを殴り、蹴り、みるみるうちに倒していく。
「凛…………」
「っ、う、動くなっ! こいつ殺すぞ!」
男は悠の首もとにナイフを突きつける。だが凛はその場から一歩も動かずに、足元に落ちている灰皿を投げつけた。
「ぶっ!」
男の顔面にそれがめり込み、悠は解放される。それから五分もしないで、男たちは全員床に倒れ伏していた。
「…………」
凛の手は、血で汚れている。それは、恐ろしいはずなのに、悠の目には優しく映った。
「……ユウちゃん、無事? ……じゃ、ないね。ボロボロだ」
凛は、すぐにいつもの何を考えているかわからない笑顔に戻って。
「怖かったでしょ」
ぽん、と頭を撫でてくれた。
「っ、り、りんっ……! 凛……!」
その温もりに縋ってはいけないとわかっていても、止められなかった。悠は凛に抱きついて、ぼろぼろと涙をこぼす。
「りんっ……! うぁ、ああああっ……!」
「痛いところ、ない? 怪我してないか見るから、ちょっと身体見せて」
「っえ、あ……!」
悠はようやく自分がどんな格好であるのかを思い出した。服はびりびりに引き裂かれ肌を晒していて、とても見られたものではない。
「や、凛、見ないでっ……!」
好きな人にこんな風に肌を見せるのは嫌だ。けれど凛は、優しい手つきで悠の身体を確かめていく。
「大丈夫。痛いことしないから、いい子にしてて。すぐ終わるよ」
「っ…………」
好きな人に、触れられている。それが愛情を伴っていないものだとわかっているのに、喜びを感じてしまう自分が浅ましくて嫌になる。
「凛っ……触らないで、頼むっ……」
「やだった?」
「嫌、とかじゃなくて……恥ずかしいからっ……」
凜に触れられることが嬉しいのを、気づかれたくない。
「大丈夫。……よかった、ギリギリ間に合ったのかな。ヤられてないね」
「っ、あ」
凜の手が太ももを滑る。決して性のためではないはずのそれに、身体がひくりと反応してしまった。
「……うん、怪我してるの、ほっぺだけだ。すぐに服用意するから、少しだけ我慢して」
凛はそう言って、誰かに電話をかけた。悠は身体を縮こまらせて、なるべく肌を晒さないように抱え込む。
「もしもし銀? 小野本組の事務所にいるから、迎えちょーだい。あと悠ちゃんが着れそうな服、一式持ってきて。急いで」
電話を切ると、凛はスーツのジャケットを脱いで悠の肩にかけた。そして、動けないままでいる悠をそっと姫抱きする。
「銀が来るまで、これで我慢してね」
どうして、こんなにも優しくしてくれるのだろう。凛にとって悠は、ただ食事を作るだけの存在で、そこに友情も愛情もないはずなのに。
優しくされたら、愛されていると勘違いしてしまう。
「っ……」
悠は、ずるいとわかっていて、凛の体温を求める。凛は、悠のことをどう思っているのだろう。
『ユウちゃんはおれの』──そう、言ってくれた。所有物でもいい。凛が悠を求めてくれるのなら。そう思ってしまった時点で、悠は終わっている。こんなこと、決して許されないのに。
「大丈夫、だいじょーぶ。もう怖い人いないよ」
血のついた手は、何よりもあたたかかった。
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