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第二十三話 壊れた薄氷
佐神組の事務所が入っているビルの建物、その屋上。
悠はなにもできず、ただ虚ろな目で景色を見ていた。いや、見てすらいなかった。
龍一に食事を作って持っていくと、顔色の悪さを指摘された。ここ数日眠れていないし、食事も味がしない。どこも身体が悪くないのにただ心が辛いだけで死というものが近くなるのだと、初めて知った。
凛は何度も身体を暴いてきた。悠はその度に凛に助けを求めて、けれどそれが聞き入れられることはなかった。何回も、何回も愛のない快楽だけを与えられて、心が少しずつ死んでいった。
「─────」
今も、昨日の情事の余韻が身体に残っている。それが惨めで、情けなくて。
「助け、て……」
悠を助けてくれる人。悠の大好きな人。それが、世界で一番悠を傷つけていた。
「悠さん」
後ろから九十九の声がした。
「親父から、伝言です。『凛と一緒にいるのが辛いなら、しばらくはうちに泊まるといい。家内も了承している』と」
「……お気遣い、ありがとうございます。でも、大丈夫ですから……」
「このままだと、貴方は死にますよ」
九十九は一切の躊躇なく、そう言い切った。
「自殺か、栄養失調か、凛さんに気まぐれで殺されるか、どれにせよまともなことにはならない。自分の身が大切なら、今は凛さんと距離を取るべきです」
「…………」
「悠さん、貴方は自殺願望でもあるんですか」
「そんなんじゃ、ないです……」
今は地獄の中にいる。きっと凛から離れれば、こんな辛い思いをしなくていい。けれど、だけど。
「約束、したんです……。帰ってきたら、おにぎり作るって……」
『やったっ! 絶対、ぜーったい作ってね! 約束だから!』
確かに約束した。嘘をつかないとも言った。きっと、きっといつか凛は腹を空かせて、ただいまと言ってくれるから。
「待ってたいんです……凛が、帰ってくるまで……。今逃げたら、一生凛が、帰って来ない気がするからっ……」
どんなにひどいことをされても、凛との約束は破りたくなかった。凛を信じていたかった。
「っ、ぅ、っ……!」
けれど、もう心は限界だった。ぼろぼろと勝手に涙が零れる。
肩を震わせていると、九十九がそっと背中に手を回した。そして、悠の頭を優しく胸に押し当てる。
「壁だと思ってください。凛さんの代わりにはなりませんが」
「ぎ、さ……」
高そうなスーツをぎゅうと掴む。その温もりが凛でないことが、ひどく悲しくて。
「ぁ、あぁっ……うわぁああっ……!」
悠は子どものように泣きじゃくった。どうしようもない現実が、悠の心を壊し続けていく。
凛に会いたい。今すぐ抱き締めて、好きだと言って欲しい。悠を救って欲しい。ただいまと甘えて欲しい。
当たり前にあった日常はもうどこにもない。
九十九の胸で泣き続けていると、ガチャリと屋上のドアが開いた。
「……うわ、ヤバ。そーゆーことだったの?」
そこにいたのは、何を考えているのかわからない笑みを浮かべた凛だった。
「銀までモノにしてたの? かわいい顔してえげつないね」
「っ、凛……」
「男漁るのはいいけどさ、痴情のもつれとかめんどくさいからよそでやってくんないかなあ」
「なに、言って……」
「凛さん、誤解です」
凛は九十九に泣きつく悠を見て、関係が邪なものであると思ったらしい。違う、悠が好きなのは凛だけなのに。
「凛、違うんだ、銀さんは慰めてくれただけでっ……」
凛に手を伸ばすと、ぱしんとそれを払われた。
「触んないでよ、汚いな」
「────」
──ぴしり。
「みんなにメシ配ってたってのも、ダシにして男漁りたいからでしょ?」
──ぴしり、ぴしり。
「胃袋掴めばモノにできるって、ちょっと古くない? てゆーか銀がその手に引っ掛かるとは思わなかった」
──ぴしり、ぴしり、ぴしり。
「凛さん、それ以上は」
「お前のことは可愛がってるけどさ、銀。流石に穴兄弟はちょっと勘弁だわ」
食事を作ることも、凛だけを想っていることも。悠を形作っている全てを、否定されて。
「もうおれの家にこないでよ。銀とか、他の男のところがあるでしょ?」
──ぴし、ぴしり。
「り、ん」
「なに?」
「────俺、いらない……?」
生きる理由が、どこにも見当たらない。
「いらない。アンタみたいな人に寄生する淫売、おれには必要ないから」
────ぱきん。
薄氷が、壊れる音を聞いた。ずっとひび割れていて、けれど決して逃げてはいけないと頑張っていた場所は脆く崩れ去って。
悠は、底の見えない海に突き落とされた。
「────」
悠の瞳から、光が消える。何も考えられない。考えたくない。全て、全てがどうでもいい。もう、何もかも。
ふらりと、行く当てもなく歩き出す。
「悠さん!」
銀の引き留める声を無視する。どこに居たって、何の意味もなかった。
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