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第二十五話 記憶の底の約束

目を開けると、そこには白い天井が広がっていた。  消毒液のツンとした匂い、視界の端に映る点滴。ここが病院であることは、すぐに理解できた。 「……生き、てる……」  まだ、生きている。もう意味もないのに、呼吸をしている。 「なんで……?」  死んでよかったのに。もう居場所はないのに。どうして、この命は終わってくれないのだろう。 「んなこと言うもんじゃねえよ、悠さん」  声のする方を見ると、龍一が苦笑していた。 「救急隊が助けてくれたんだ。相当危なかったそうだぞ。スマホの履歴から俺のところに連絡来てな」 「親父さん……」 「あんな悲しい遺言あるかよ。爺にひでえことさせんじゃねえ」  龍一がわしゃわしゃと悠の頭を撫でる。けれど悠の胸は、生き延びてしまった絶望でいっぱいで。 「や、です……」 「ん?」 「だって、どう生きればいいのか、わからない……」  凜にいらないと言われて、生きるよすがを喪った。どんなに一生懸命生きても、この絶望がずっと纏わりつく。 「確かに辛えだろうな。けどな、これ聞いてもまだそんなこと言ってられるか?」  龍一は、プレゼントを渡す父親のような顔をして。 「凜がな、握り飯食いてえって暴れてんだ」 「え……」  おにぎり。凜が、食べたいと言っていた、約束の。 「夢で食ったのがどうしても忘れらんねえんだと。具は思い出せねえ。どこの店のもんかもわからねえ。ただとんでもなくうまい握り飯を食ったから、もう一度あれが食いてえ、ってな」 「────!」  凜は、忘れてなどいなかった。覚えていてくれたのだ。悠が作ったおにぎり、凜の大好物を。 「り、ん……」  涙がぼたぼたと溢れてくる。まだ思い残しはあったのだ。悠にしかできない、ただひとつの寄る辺が残っていた。 「凜、凜っ……!」 「なあ悠さん、怪我が治ってからでいいから、あの馬鹿に作っちゃくれねえか」 「っ、いやです、今すぐ作りますっ! 病院から連れ出してください!」 「おい……三日も意識なかったんだぞ? 今は安静に……」 「凜がずっと腹空かしてるってことでしょう!? いいから早く、キッチンスペースに連れてってください!」  点滴を引き抜いてベッドから飛び起きる。身体の痛みなど、もうどうでもよかった。  ずっと苛つきがおさまらない。何かが不快だ。それが何か、言葉にはできないけれど。  凜はため息を吐いて、足を組み直した。最近は組の雰囲気が変だ。みんなうまいものが食べたい、なんて寂しそうに凜に気づかれないようこっそり呟くし、龍一はこちらを窘めるような目で見てくる。九十九に至ってはカタギの男に胸なんて貸していた。  自分が忘れた数ヶ月の間に、随分と組が変わってしまったように思える。それにだって苛ついていた。  ただ、何よりも。 『やだっ……! 凛、助けてぇっ……!』  あの、悲痛な叫びが頭から離れない。助けて、なんて何回も言われた言葉だ。崖っぷちの債務者から許して欲しい、助けて欲しいなんて死ぬほど言われてきた。その全てがどうでもよかった。あの悠とかいう少年のそれだって、自分を蹂躙しようとする人間への懇願に他ならない。そのはずなのに、どうして。 「あーもう……イラつく……」  腹が減って仕方がない。何を食べても食べた気がしない。夢の中でおにぎりを食べた時だけ、『満たされる』という感覚があった。 「どこのなんだろ、ほんと……」  もしかしたら、この世の食べ物ではないのかもしれない。そんなことを思っている時だった。 「おう凜、んなピリピリすんな、下のもんがビビっちまうだろうが」 「親父……」  事務所に入ってきたのは、敬愛する龍一だった。 「ちょっと組長室に来い。いいもんがある」  彼はそう言って、凜を手招きした。  龍一が紙袋から取り出したのは、透明な使い捨ての弁当容器に入ったおにぎりだった。紙袋には店のロゴもなにも入っていない。 「おめえが食いてえのは、多分これだと思うぜ」 「……これが?」  何というか、地味だ。何か特別なものだとは思えない。これが本当に、夢で食べたあのおにぎりなのだろうか。 「おう。ここの店主は今身体悪くてな、入院してんだ。それをどうしてもうまい握り飯食いてえって言ってるやつがいるって伝えたら、病院飛び出してこさえてくれたんだ」 「……へえ」  せっかくそこまでしてもらっても、このおにぎりが凜の求めているものだとは限らない。どうせまた外れだ。そう思って、期待をしないでひと口をつまんだ。 「……?」  懐かしい、と思った。凜はおにぎりをわざわざ専門店で買ったことなんてない。なのになぜか、この味を知っている気がした。  はぐり、ともうひと口。食べ進めたことで、中に入っていた具に辿り着いた。  マヨネーズの味がして、何の変哲のないツナマヨかと思ったが、違う。甘く粒のある食感がした。  ──ツナマヨなのに、コーンが入ってる? 『なにこれ! ツナマヨにコーン入ってる!』 『回転寿司にツナマヨとコーンが乗ってる軍艦あるからさ、それおにぎりにしたんだ』  そうだ、前にそんな会話をした。誰と?  もうひと口、食べ進める。 『凛が帰ってきたら、夜食作るよ』  夜食におにぎりが食べたいと、リクエストをした。彼はわかったから落ち着いてくれと、凜を愛おしげに見つめて。 「ユウちゃん……?」  約束をした。待っていてくれると言ってくれた、彼は。 『やだっ……! 凛、助けてぇっ……!』 『────俺、いらない……?』  悲しんで、絶望して、凜から、離れて──。 「っ、親父、ユウちゃんどこっ!?」 「凜、落ち着け」 「おれ、おれユウちゃんに言っちゃいけないこと言った! 最低なこともっ……! ねえユウちゃんどこ!?」 「落ち着け! 悠さんは病院で眠ってる。さっき言った通りだ。今具合が悪いんだ」 「なんで……? ユウちゃんに何があったんだよ、親父!」 「泊まってたホテルが火事になってな。三日意識が戻らなかった。どう生きればいいかわからないなんて抜かすから、おめえが腹減ってるの伝えたら病院抜け出してそれこさえたんだよ」 「火事……?」  そういえばニュースでこの近くにあるホテルで火災が発生したと言っていた。あれに巻き込まれていたのか。 「病院の場所は教えてやるから、とりあえず握り飯全部食え。悠さんが文字通り命削って作ったメシだ」 「ユウ、ちゃん……」  あんなひどいことをしたのに、どうして凜のために食事を作ってくれたのだろう。  悠の光を映さない瞳が、ずっと脳裏に焼き付いて離れなかった。

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