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第二部 第五話 ヒーローの決意
すうすう、と聞こえる寝息。眠っている悠の目尻は、泣いていたことを隠せない赤い痕が残っていた。
悠はずっと泣きっぱなしだった。凜が死ぬかもしれなかった、自分が弱いせいだ、自分が助けを求めたからだと、何度も己を責めていた。凜からすればこの程度の怪我は何回だって経験してきたものだ。走っていたらつまずいて転ぶのと同じくらいの頻度で起きることだと思っている。けれど悠にとってはそうでなかったようで。
腫れた目元が痛々しい。それをそっとなぞって、口づけをひとつ落とした。
「……ユウちゃん」
自分より幼い身体を、ぎゅうと抱き締める。彼は眠りながらそれに甘えてくれる。
「ただ、守ればいいってもんじゃないのかな……」
黒髪を撫でで、ぽつりと呟く。こんなに泣かせるつもりはなかった。いや、彼の悲しい涙なんて二度と見たくないと思っていたのに。
許されないことをした。約束を守り続ける悠を貶して、突き放した。絶対に彼に言ってはいけない言葉を並べたて、死にかけるところまで追いつめた。
凜はひとでなしだ。日陰者だ。人を殺したことだってある。今更善人ぶるつもりなんてない。それでも、悠を苦しませたことは『悪いこと』としてずっと心に重りとしてのしかかっている。
それを罪悪感と呼ぶことを、凜は知らない。
「ユウちゃん、すき」
ヒーローと呼んでくれるのが嬉しかった。好きだと言ってくれるのが嬉しかった。だから、凜は自分が出来る方法で悠を喜ばせたいし、守りたい。男が銃口を向けるのが見えた瞬間、悠を庇ったのは間違いじゃなかったと思っている。
けれどそれが、彼の涙を生んでしまった。もう泣かせたくないと思っていた彼に、またひとつ心の傷をつけてしまった。
九十九のように頭がよかったら、龍一のように人生経験があったら、悠を泣かすことはないのだろうか。だが、凜は凜でしかなくて、それを止める選択肢だってない。
「お願いだから、笑ってよ……ユウちゃんが泣いてるの見てると、なんかやだよ」
胸がぎゅうっと締めつけられて、うまく息ができなくなる。そんなことを言ったら悠はもっと心配をしただろうから、口には出さなかった。いつものように笑顔で取り繕って、彼をなだめ続けた。
「いっぱい泣かせてごめんね、ユウちゃん」
謝ったって何も変わらないことはわかっている。悠を泣かせたことを、凜自身が許せない。
「好きな子、泣かせないって……マジでむずいんだなあ……」
昔、龍一が言っていた。『惚れた相手泣かすようなやつはまだまだ半人前だ』と。なら凜は半人前のままだ。確かに龍一の妻が泣いている姿は見たことがない。
凜は、そっと悠の額に唇を寄せた。
「大好きだよ、あいしてる」
愛しているなんて言葉、自分の口から出ることは一生ないと思っていた。いや、思ったことすらなかった。だが悠に抱いているこの気持ちは、きっと愛情と呼ぶものだ。
愛してもらったことはなくて、愛し方もわからなくて。凜はきっと、人としてなにかが足りない。それでもわからないなりに、悠を愛していきたい。
「ヒーロー頑張るから、いっぱい笑ってね、ユウちゃん」
凜は痛む腹を押さえることもせずに、あどけない寝顔をいつまでも眺めていた。
「んん……」
テーブルに座っていると、こくん、と首が揺れた。結局一晩中悠を見ていたせいで、まともに睡眠を摂れていないから当然だ。
「凜、大丈夫か? やっぱり痛くて寝れなかったんじゃ」
「あー……違うよ?」
「じゃあ俺が疲れて読み聞かせしなかったから……」
「それも違うって。ユウちゃんのせいじゃないから。ふぁ……」
「眠いならちゃんと寝た方がいいぞ。今からでも二度寝して来たらどうだ?」
「や。ユウちゃんの朝メシ食いたい」
凜はいただきます、と手を合わせて、目の前の目玉焼きが乗っているトーストにかぶりついた。ベーコンの塩気と黄身のまろやかさが合わさって、舌の上で旨味と変わっていく。
「んま!」
ひと口かじると、黄身がどんどん溢れてくる。少しだって零さないようにはぐりと食らいつくと、正面からクスクスと笑い声が聞こえた。
「ふはっ……そんなに、急がなくても……」
悠が笑っている。心の底から、楽しそうに。その笑顔を見ると、昨日とは違う胸の締めつけを感じた。痛みではない。心があたたかくなるような、ずっと欲しかったものが手に入ったような安心感。
「……やっぱさあ」
「ん?」
「ユウちゃんは、泣いてるより笑ってる方がいいよ。かわいい」
「凜はすぐかわいいって言う……」
恥ずかしいのか、悠の頬がわずかに赤らむ。実際可愛いのだから仕方がない。
「ほんとのことだもん。ユウちゃん笑ってると、おれ胸ぽかぽかする」
「……そっか」
悠は嬉しそうに笑んで、ちょっと恥ずかしいななんて言う。そのはにかむ仕草も、可愛くて。
「とりあえずさ、ユウちゃんのヒーロー続けるために目標立てようと思うんだよね」
「目標? なんだそれ」
「一日五回はユウちゃん笑わせる。メシうまいって言う度に笑うからそれで三回は確実でしょ。だからあと二回はそれ以外で笑わせる」
彼が涙を流すなんて身体の機能を忘れてしまうくらい、笑顔でいっぱいにしたい。
「そんなの、凜がいたら一日五回なんてすぐだ。凜の隣にいるだけで幸せなんだから」
悠はひとでなしと一緒にいることが、幸せだなんて言ってのける。もしかしたらどんなヤクザより肝が据わっているかもしれない。
「ユウちゃんって、怖いね」
「えっ、なんで!?」
「さあ?」
凜は唯一自分を苦しませることができる少年に向かって、にっこりと微笑んだ。
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