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第二部 第七話 寝起き
「凛さん、凛さん起きてください」
誰かが凛を呼ぶ声がする。悠は意識が揺蕩う中でその声の主が誰だったかを思い出そうとした。
「早く起きてください」
そうだ、この冷静な声は九十九だ。確か彼は合鍵を持っていた。きっと凛を起こしに来たのだろう。
「んん……」
ぱちり、と目を開ける。そこにはやはり、スーツをしっかり着込んだ九十九がいた。
「おはようございます、悠さん」
「あ……おはよ、ございます……」
「個人の自由だとは思いますが、寝巻きはしっかり着た方が風邪を引かないと思いますよ」
「はい……へ?」
そんなに服装が乱れていただろうか。そう思って自分の身体を見下ろして────。
「うわあああああっ!?」
悠は、下着すら履いていなかった。
しかも身体には、凛に愛された証しがあちこちに散らばっている。
「ぎ、銀さっ、ちが、違くて! 普段はちゃんとしてて! 昨日はその、事情が! いやあの事情ってそういうのじゃなくて!」
あわあわと言い訳にもならない言葉を必死に紡ぐ。対して銀はどこまでも冷静だった。
「大丈夫ですから、落ち着いて服を着てください」
「えっ、あっ、ぁぅ……」
ベッドの周りに散らばっている洋服をかき集める。凛と夜通し行為に耽っていたのがばれてしまって、今すぐにでも穴に入りたかった。
悠が服を着ると、銀がお願いがあります、と言葉をかけてきた。
「今すぐ凛さんを起こしてもらえませんか。急に若頭以上の幹部が会合に出なくてはいけなくなったのですが、親父は今日病院で」
「あっ、はい! 凛、凛っ! 起きてっ!」
ゆさゆさと彼の身体を揺さぶる。すると赤の瞳がゆっくりと開いて。
「んぅ……ユウちゃん……なぁに……?」
「凛、銀さん来てる! 会合出て欲しいって!」
「そんな予定入ってないよ……? 今日はユウちゃんとゴロゴロする日だもん……」
「急に決まったんですよ。神崎さんが若頭以上を出さなければ話し合いにすらならない、と仰せなので」
「んんー……?」
凛がむくりと起き上がる。当然、彼も服を何も纏っていない。
「それ、おれ行かなきゃだめ? めんどいんだけど……」
「凛さんが行かないのなら親父の病院の予定をキャンセルすることになりますよ」
「えぇー……」
凛はぎゅう、と悠の腰に抱きついた。
「今日はユウちゃんかわいがる予定でびっちりなのー……絶対行かない……」
「凛、大事な会合だろ? 行こう?」
「やぁだー……」
凛は子どものようにぐりぐりと頭を押しつけてくる。九十九が目配せでどうにかしてください、と言ってきた。
「……し、仕事頑張る大人って、かっこいいと思うなあ……」
少しわざとらしかっただろうか。けれど凛はちらりと悠を見た。
「仕事頑張るって言ってくれたら、俺も頑張ってうまいメシ作って、おかえりって言うんだけどなあ…………」
「…………ほんと?」
「働いて帰ってきてから食うマカロニグラタン、うまいんだろうなあ……?」
これで本当にいいのだろうか。首を捻りながらさらりと凛の髪を撫でる。彼の顔を覗き込むと、少年のような表情でこちらを見つめてくる。
「……グラタンおかわりしていい?」
「グラタンも、凛が好きなにんじんのサラダも、パンもおかわり自由かも」
「銀、会合何時から?」
「三時間後の十二時半からです」
凛はのそりとベッドから出て、下着を履いていつもより糊のきいているスーツに着替え始める。
「会合は出るけど、その後会食があっても出ないから。絶対に会合だけで帰る」
「わかっています。そこまで拘束する気はありません」
凜はきゅっとネクタイを結んで、悠の頬に口づけをひとつ落とした。
「ユウちゃん、チーズいっぱいにしてね? この前アニメで見たやつみたいに伸ばすのやりたいから」
「あれはパンに乗せてたやつだろ? グラタンでできるかなあ……」
「凜さん、早く顔を洗ってきてください」
「はいはーい。……あ、そうだ銀」
「はい」
「ユウちゃんの裸、見た?」
「ちょ、凜っ!?」
凜は顔が笑っているけど笑っていない。見たなんて言えば九十九が殺されかねない。なのに。
「見ましたよ。凜さんが気持ち悪いくらいにキスマークを残しているのも」
「あっはは、おっけーおっけーお前の目後で潰す。ユウちゃんやらしー目で見るやつ許さねえ」
「別に悠さんの裸を見たからってどうもしないでしょう。他人のものに興奮する趣味はありません」
「あ? ユウちゃんの裸エロいだろーが、興奮しないとかやばくない?」
「自分がどれだけ理不尽なことを言っているかわかっていますか?」
「凜っ! は、早く顔洗ってきてくれっ!」
凜の身体を押して寝室から追い出す。自分の身体が性的かどうかなんて会話聞いていられるものじゃない。
「……悠さん、ご面倒をおかけします」
「え、あ、いえっ! 面倒とかそういうのは全然」
「──凜さんは昔から何を考えているのか不明で、どこか人とは違う雰囲気を持っていました。けれど、最近はそれがなくなってきたように思います」
「へ……?」
「そうですね、一言で表すなら──人間臭くなった、でしょうか。あの方はようやく人になったらしい」
九十九はすっと目を細める。昔を思い出して──そしてきっと、喜んでいる。
「これからも、凜さんをよろしくお願いします」
彼は深々と頭を下げる。いつも凜を怒ってはいるが、凜を敬愛しているのが伝わってくる。
「こ、こちらこそ……よろしくお願いします……」
悠も頭を下げ返す。悠が凜にいい影響を与えたのなら、こんなに嬉しいことはない。
「顔洗ってきたー。……ふたりしてなにお辞儀してんの?」
「凜さんがご面倒をかけているので、謝罪を」
「は?」
「違っ、これからもよろしくって話してただけだから!」
凜を必死になだめて落ち着かせる。凜の『家族』に認められた嬉しさは、いつまでも心にほのあたたかさを灯してくれた。
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