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幕間 いつか誰かが

 制服を着ようとすると、うまく息ができない。私服でもいいと言われたからそれで外に出ようとしたら、足がすくんで動けなかった。  不思議だ。料理を作るために買い出しに行くのは、全く怖くないのに。 「………………」  悠はぎゅう、と自分の身体を抱き締める。もう、悠はきっと一生学校には行けない。  生きるために絶対に行かなくてはいけない、あの空間に、行けない。 『調子乗ってんじゃねえぞ、カスっ!』 『ちょっと顔いいからってナメてんだろ!』 「っ……」  クラスメイトの罵倒を思い出して、身体が震える。  理由は覚えのないものだった。『クラスメイトの好きな女の子が、悠が好みの顔だと言っていた。そのせいでフラれた』。そんな、全く預かり知らぬ理由で、悠は地獄に突き落とされた。  持ち物を隠されて、金を取られて、殴られて、蹴られて。彼らは人目のつかないところでそれを行った。友人はクラスメイトの暴力に巻き込まれるのを怖がって離れていった。教師には言えるはずもなかった。言って明るみになり、また逆上されたら次は何をされるかわからない。  行かなくちゃいけない。行かなくてはいけないのに。  身体が、動いてくれない。 「………………」  もう、終わりかもしれない。学校に行かなければ何もかもがきっと満足にできない。悠はこのまま────。 「悠、父さんだ。入っていいか?」 「……うん」  ドアの向こうの声に応えると、父が入ってきた。 「悠、あのな、父さん学校と話してきたんだ」 「…………っ」  父も、やはり学校に戻って欲しいのだろうか。当たり前だ。引きこもりの息子の面倒なんていつまでも見れるものじゃない。 「悠、今の学校、行きたいか?」 「…………」  ふるふる、と首を振る。もうあんなところ、行きたくない。 「じゃあ、学校を変えてみるのはどうかな」  そう言って父は、パンフレットを差し出してきた。 『通信制高校』──そう書かれたものを。 「通信、制……」  悠も聞いたことはある。確か普通の高校と違って、毎日通う必要がない学校のことだ。 「今の学校に固執する必要はないんだ。学校はこの世にたくさんあるんだから。通信制はそのひとつの選択肢だと、父さんは思う」 「………………でも、できるかな…………」  怖い。外の世界に踏み出すのがたまらなく怖い。 「悠」  父は、優しく悠の頭を撫でた。 「通信制の高校出た後、専門学校に行く人もいるらしい。悠は料理が好きだから、調理学校に行くのはどうかと思ったんた。でもそのためには、高校を卒業しなくちゃいけない」 「調理学校……?」  料理は好きだ。もし、それを生業にできたらどんなにいいだろう。 「で、でも……また通信制でもいじめられたら、俺……」 「その時はまた学校を変えればいい」  父は、悠を大切なものを見る目で見つめた。 「それにな、悠。いつかきっと、悠の心を大切にしてくれる人が父さん以外にも現れてくれる。悠のことを守ってくれる人、悠が一生隣にいたいって思える人が」 「…………」  悠を守ってくれる人。そんなヒーローみたいな人間がいるのだろうか。 「だからそれまでは、父さんが悠を守るから、悠はしたいことのために、少しだけ勇気を出してみないか?」 「…………う、ん」  こく、と頷く。うまくいくかはわからない。けれど、父の言葉に賭けてみてもいいと思えた。    裏道を走る。体力のない自分が恨めしい。必死に走り続けて、たどり着いたのは灰色の壁に拒まれた袋小路。 「おう、やーっと止まったかガキ」  チンピラらしき男がいやらしい笑みを浮かべる。 「テメェ適当に傷つければ金もらえるって聞いてなあ、恨みはねーがちょっと俺らのために死んでくれや」 「っ…………」 「ついでに──有り金も全部もらっていこうかな」  五人のチンピラに囲まれて、悠はごくりと唾を飲み込んだ。どうにか隙を見て逃げ出そうと男たちの合間を縫おうとした瞬間、リーダーらしき男に捕まってしまった。 「おっと逃げんのはナシだ」 「離せっ!」 「まあまあ、殺しはしねえからよ」  ──やばい、どうしよう。俺ひとりじゃどうにもからないけど、でも。  凛を頼って、また彼が傷ついたらと思うと、凛の名前は呼べなかった。 「かわいい顔してっから殴んのもったいねーけど……おらっ!」 「っぶ!」  頬に熱が走る。悠の身体がぐらりと傾いて、取り巻きの男に拘束された。 「半殺しでいーよな?」  男はニタニタと笑っていて──悠はどうしようもない恐怖に襲われた。 「っ……凛っ! 助けてっ!」  気がつけば、ヒーローの名前を叫んでいた。ああ、やはり悠は弱くてどうしようもない。 「はぁい」  頭上から声がする。見上げるとそこには、二メートルほどの壁の上にしゃがみこんでいる、悠だけの──。 「あ!? 誰だテメェっ!」 「その子専属のヒーローでーす。もうユウちゃんさあ、殴られてから助け呼ぶんじゃ遅いでしょ? 遅れてごめんねっ」  凛は壁からとん、と降り立って、そのまま取り巻きのうちひとりを下敷きにした。 「ぎゃうっ!」  突然の乱入者に男たちが驚いている間に、凛は長い足で悠を拘束している男を壁際まで吹っ飛ばした。 「ぐえっ!」  そしてもうひとりは、両肩を掴んで腹に膝を叩き込む。 「ごほっ!」 「よっわ。で、さあ。なんでユウちゃん狙ったの?」 「っひ……!」  リーダーの男がカタカタと震える。 「ただのカツアゲ? それとも──怖いお兄さんに、なんか頼まれた?」 「あ、あ……!」 「うん、頼まれたんだね。じゃーその頼んできた人のこと喋ろっか」 「わ、わかった! 喋るから、許し──」 「やぁだっ」  凛の右ストレートが男の身体を宙に浮かせた。 「ごはっ!」 「ユウちゃんに手出したんだから、十倍返しはしないとでしょ?」  凛は男に馬乗りになり、何発も何発も拳を叩き込む。男が完全に動かなくなってから、凛は立ち上がってこちらを向いた。 「気絶しちゃった……。後は銀に拷問頼むよ。多分どっかの組が金で雇ったんでしょ。ユウちゃん、帰ってほっぺ冷やそ?」  凛はにっこりと笑って歩き出す。 「……ありがと、凛」  悠は、血だらけのその手をそっと握る。 「こらユウちゃん、汚れちゃうよ?」 「いいんだ。……手繋いで帰りたい」  悠のために汚れた手。誰よりも怖いのに、誰よりも優しい悠のヒーロー。 『それにな、悠。いつかきっと、悠の心を大切にしてくれる人が父さん以外にも現れてくれる。悠のことを守ってくれる人、悠が一生隣にいたいって思える人が』  父の言ったことは本当だった。思っていたよりずっと、危なくて子どもっぽくて、綺麗な人だったけれど。  血塗れのヒーローと少年は、互いに微笑みあって帰路を歩き始めた。  

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