42 / 58
幕間 卵スープと天国の食べ物
今日も、ゴミ箱を漁る。見つけたのは賞味期限の切れた、カビたパンひとつ。
それの袋を破って、ばくりと食らいついた。生まれてから、食事を用意された覚えがない。母はどこぞの男を漁りに、酒浸りの父は狭い部屋でうるさくいびきを立てている。
彼らの残飯や捨てる食べ物が、凛の食料だった。味は関係ない。とりあえず、腹が減らなければなんでもよかった。変な匂いがしてもとりあえず食べる。カビていても気にしない。
がつがつとパンを貪り続けて、むせてしまって咳き込む。
幼い凛は、『腹がいっぱいになった』という状態を知らない。胃袋を満たすまで食べたことがないからだ。だから、満腹感による幸福も当然知らない。
パンは正直まずい。けれど食べる。そうしないと生きていけないのを知っていたから。
大きな欠片が喉に入ってまたむせると、誰かがそっと背中を撫でた。
「…………?」
見上げると、そこには人の形をした光があった。
──急いで食べたら喉につまっちゃうぞ、凛。
光は優しく微笑んで、何かを差し出した。
それは、スープが入った器だった。湯気を立てているそれは、ふわふわの卵が浮いている。
──ほら、スープ食べよう?
「……食っていいの、これ」
凛のために食事が用意されたことなどない。腐ってもカビてもいない、あたたかい食べ物を食べていいなんて言われたことはなかった。
──いいよ。凛のために作ったんだ。
光からスープを受け取って、ごくりと飲み込む。あたたかくて、優しい味がして、どこか安心できて。
「なんだこれ……」
それが『美味しい』という感覚だと言うことを、誰も凛には教えなかった。
──うまいかな?
こくこくと頷くと、光はもうひとつ食べ物を取り出した。
パンに挟まった、黄色と白の卵。前にパン屋の前を通った時に見ただけのそれが、目の前にあった。
──カビてるパンじゃ、腹壊しちゃうだろ。これ、食べて欲しいんだ。
ぐうううう、と腹の虫が鳴る。凛はそれを受け取って、がぶりと大きく食らいついた。
パンはとにかくうまかった。柔らかくて、具はまろやかで、ゴロゴロとたくさん入っていて。凛は必死になってパンを咀嚼した。
──ああ、そんなに急いで食わなくていいから。誰も盗らないよ、凛。
パンとスープを食べ終わると、光は手を差し伸べてきた。
──こっち来て。もっと沢山、凛のために作ったものがあるんだ。
光に手を引かれて一歩を踏み出すと、汚いアパートの部屋から一転、目の前に沢山のご馳走がある綺麗な部屋にいた。
──好きなだけ、いっぱい食ってくれ、凛。
光はそう言って、凛の小さな身体を包み込んだ。
胸におとずれたあたたかさは、『幸せ』と呼ぶものだと、少年はまだ知らなかった。
「…………ん…………」
ぱち、と目を開ける。なんだか不思議な夢を見た気がする。
「おはよ、凛」
声のする方を向くと、腕の中には誰よりも愛おしい年下の恋人がいた。
「おはよ、ユウちゃん……」
寝ぼけまなこのまま、彼にひとつキスを落とす。
「夢見てたのか? なんかむにゃむにゃ言ってて可愛かった」
「夢……あー、うん。なんかねえ、ユウちゃんがパンとスープ食わせてくれる夢見た」
「そっか、うまかったか?」
「ちょーうまかった。でも夢じゃ足んない。現実でも食いたーい」
ぎゅう、と彼を抱き締めると、悠は腕の中で幸せそうに微笑んだ。
「じゃあ朝メシはパンとスープに決定だな。パンってどんなのだった? 食パン?」
「んーん、丸くて切れ目に卵がめいっぱい入ってるやつ! この前作ってくれたあれ!」
「ロールパンだな、じゃあ買いに行ってくるよ。少し待てるか?」
「おれも一緒に行くっ!」
凛は悠の腰にぎゅうううっと抱きついた。
「腹減ってるんだろ? 無理しなくていいのに」
「ユウちゃんとデートしたいのー。買い物デート、しよ?」
上目遣いで首を捻ると、悠はふっと笑みを浮かべる。そして凛の髪に手を通して、寝癖がついているそれを梳いた。
「うん、わかった、デートだな。バターもそろそろなかったし、一緒に買おう」
「はぁーい」
ベッドから起き上がって、ふたりで洗面所に行く。途中で、腹の虫がぐうううと音を立てた。
「あははっ、可愛い」
「おっかしーなー、夢であんなにうまいの食べたのに」
「夢で見たからこそ、じゃないか? 凛は夢でも俺のメシ食ってくれるんだな」
「うん。ちょーうまくてさあ、それまでカビ生えたパン食ってたから感動しちゃった」
「へ、カビ?」
「そー。親が捨てたやつ。そしたらユウちゃんがスープとパンくれてさ、あんまりにもうまくてこの世の食いもんじゃないのかもって思っちゃった」
「……そっか。凛、夢の中でも、この世の食べ物じゃないものは食べない方がいいぞ?」
「なんで?」
「よもつへぐい、って言ってな。あの世の食べ物食うと、あの世の住人になっちゃうらしいんだ。昔高校の先生が教えてくれた」
「へえー。でもおれ、ユウちゃんが作ってくれたもんなら何でも食うよ?」
悠の作ったものなら、それがあの世のものであっても構わない。だってこの世にある時点で、天国の食べ物のように美味なのだから。
「やだよ。凛があの世に行っちゃったら寂しいだろ」
「そしたらユウちゃんもあの世で一緒に仲良く暮らそうよー。……でも、おれは地獄行きだから、無理かなあ」
悠を後ろから抱き締めて、腕の中に閉じ込める。
「大丈夫、たぶん俺も地獄行きだから」
「そうなの?」
「……だって、凛がどんなに悪いことしたって、凛のこと好きだから。これって共犯だろ?」
そんな可愛いことを言うので、頬を掴んで唇を奪う。
「そーだね。ユウちゃん悪い子だ」
思慕を含んだセレストブルーには、楽しげな凛の笑顔が写り込んでいた。
ともだちにシェアしよう!

