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第二部 第二十二話 気づかなかった苦手

 その日は、大雨が降っていた。ぼつぼつと雨粒が事務所の窓を叩く。 「雨やまないっすねえ……」 「あー……嫌だなあ……」 「洗濯物も乾かないですしねえ……」  酒井と館山と話していると、酒井がいやいやと手を振った。 「違げーんだ悠さん。雨の日は凜さんが何考えてるかわかんねーから、俺らは雨嫌いなんだよ」 「……凜が?」 「そうなんすよ、ずーっとぼーっとしてたと思えば急に不機嫌になったり、そこまでやらなくてもってくらい取り立てで相手半殺しにしたり」 「……雨、嫌いなのかな」 「さあ、嫌いかどうかは聞いたことないっすけど、様子がおかしくなるのは確かっすね」 「『雨の日の凜さんには近づくな』──これ、佐神組の掟なんだ」 「確かに朝もちょっとぼーっとしてたかも……。あれ、そういえば凜は?」 「あれ、そういえばいないっすね。取り立てかな」 「いや、今日の分はもう全部終わったはず……」  見渡しても凜はいない。まさか、この大雨の中出かけていったのだろうか。 「コンビニとかじゃないっすか」 「こんな雨の中か? それこそ若い衆適当にパシればいいだろ」 「……俺、凜のこと探してきます」  なんだか胸がざわざわする。今すぐ彼の無事を確認したかった。 「待った悠さん、外大雨だぞ。凜さんもガキじゃないんだからすぐに──」 「すぐ戻ります!」  ソファから立ち上がって、急いで外に出る。傘を差して、辺りを見回しても凜は見つからなかった。 「凜、りーん!」  本当にコンビニなどに行っているのなら杞憂で済む。けれど──。 「凜、凜!」  大雨の中彼を呼ぶ。五分ほど歩いたところに、彼は突っ立っていた。 「……! 凜!」  凜は傘を差していなかった。赤い髪もスーツもびしょ濡れだ。 「────」  彼はただ、雨の降る空を眺めている。どこか遠く、ここではない時間を見つめるように。 「凜っ!」  凜の身体を揺さぶる。大声を出して、ようやく彼は悠に気づいたようだった。 「……え? あ、ユウちゃん……どしたの?」 「どうしたの、じゃない! なんで傘差してないんだよ、ずぶ濡れじゃんか!」 「あー……ぼーっとしてて?」  凜は何もなかったかのようににへらと笑う。だが虚空を見つめる彼は明らかに普通ではなかった。 「事務所戻ろう?」 「んー……んー……今は、人のいるとこ、あんまやだなあ……」  凜は子どものようにぽつりと呟いた。 「凜……?」 「なんか……やだ。うるさくて」  さみしそうな声。いつも楽しそうな赤の瞳は、今は濁っている。 「……凜、雨苦手か?」 「苦手……なのかな。考えたことないや。雨の日ってなんかぼーっとしちゃうんだ」  凜は、何も持っていない両の手をじっと見つめる。 「……雨の音聞くと、昔のこと思い出すんだよね」 「昔……?」 「……まだ、ガキだった頃にさ、雨の日に外に放り出されたんだ。親父の機嫌悪くて、殴られてさ」 「…………」 「まだガキだったから、殴り返す力もなくて。腹も減ってて、なんかこのまま死ぬのかなーとか思って」  つまり、雨の日がトラウマということではないか。寒い日に子どもが外に放り出されるなんて、悠の想像を超えていた。 「雨降ると、それ思い出してムカムカする。寒くて、動きたくなくて、イライラして」 「……そっか、凜は雨嫌いなんだな」 「嫌い、なのかなあ……」  雨を止める方法を、悠は知らない。それでも、少しだけでいいから凜を雨から遠ざけたかった。 「凜、今日はもう帰ろう。俺事務所に荷物取ってくるから、そこで雨宿りして待っててくれ」 「……ん」  凜を屋根のある場所に誘導してから、急いで事務所に戻る。弱った犬のような彼を、どうにかして救いたかった。  家に帰るなり、悠は凜を風呂に入れて温めた。髪と身体を洗って、ゆっくりと湯に浸からせて。凜はずっとぼうっとした調子だった。  ドライヤーを終えた彼は、ソファで体育座りをしている。 「凜、あったかい飲み物飲むか?」 「……うん」  凜を元気づけられるような飲み物。とにかく甘くて、優しい飲み物。悠は冷蔵庫からココアと牛乳と、シフォンケーキ用に買った泡立ててあるトッピング用の生クリームを取り出した。  牛乳を温めて、ココアに少量ずつ混ぜる。ダマにならないよう丁寧に練り上げて、牛乳をまた混ぜての繰り返し。ココアがマグカップの七分目にまで達したところで、生クリームをこれでもかと絞ってトッピングした。  更に駄目押しで、スコーンを焼いた時の残りのチョコチップを上にまぶす。まるでカフェに出てくるような特製ホットココアの完成だ。 「凜、お待たせ!」  悠は両手でマグカップを持って、ずいと彼の前にココアを差し出した。 「……わ、すご……」  凜の目に、一瞬光が戻った気がした。  彼はココアを受け取って、ごくん、とひと口を飲む。 「……すっげ、甘い」  その瞳は、幼子のようにきらきらとしていて。 「笑っちゃうくらい甘いんだけど……カロリーやばくない?」  そう呟く彼は、鼻の頭にクリームをつけていた。 「今日はカロリーは無視! 何杯でも作るから!」 「……ぷっ、あはっ、あははっ、ほんと? ユウちゃんおれのこと太らせたいの?」  凜の顔に、笑みが戻った。それだけで、悠は心の底から安堵の息を漏らした。 「ホットチョコでもいいぞ。はちみつたっぷりの紅茶でも!」  悠にできることはそれだけだ。凜をひたすら甘やかして、大事にして。  冷たい雨に濡れていた子ども時代ごと、抱き締めてやりたかった。 「あは、ユウちゃんやさし」  凜はごくごくとココアを飲んで、スプーンで生クリームを掬う。鼻の頭についているクリームは、ティッシュで拭き取ってあげた。 「んー……ちょっと、ぽかぽかになったかも。でもなんか、だるいのは抜けないなあ」  もしかしたら凜は低気圧に弱いのかもしれない。体調が悪いのなら休むのが一番だ。 「凜、ベッド行こう。具合悪いなら休んだ方がいい」  彼の手を引いて寝室に向かう。凜をベッドに寝かせて、布団をいつもより一枚多く被せた。 「頭痛くないか?」 「ん……ちょっと」 「多分低気圧の頭痛だな。薬買ってくるから────」 「んーん、今はユウちゃん一緒にいて」  凜がくい、と悠の手を引っ張る。そのまま悠は布団に引きずり込まれて、凜の腕の中に閉じ込められた。 「おれと一緒に、雨宿りして」 「……うん」  とん、とん、と凜の背中を一定のリズムで叩く。彼は静かに目を閉じて、悠の額に額を合わせた。 「……♪ ……♪」  凜の気に入っている子守唄を、ゆっくりと歌う。少しでも、彼が穏やかに眠れるように願って。 「……ユウちゃん、歌うまいよね」 「え……そうかな」 「うん、鼻歌とかもうまいなーって思う。すげー落ち着く。安心する」 「……そっか」  再び子守唄を再開する。凜の足に足を絡めて、寄り添って。世界で独りぼっちだった子どもを、温もりで包む。 「……♪ ……♪」  やがて凜は穏やかな寝息を立て始める。彼の顔にもうさみしさはなかった。凜が、ようやく安全地帯を見つけた一匹の獣のように見えた。 「……おやすみ、凜」  今日の夕飯はホワイトシチューにしよう。パンも白米も両方用意して、寸胴鍋いっぱいに作って。悠がいる限り、凜に飢えなど感じさせたくなかった。今日は悠が使えるものをすべて使って、凜を甘やかして、温める。  凜が、心を休ませられる居場所になりたい。凜の安らぎになりたい。彼が何の憂いもなく眠りにつける、帰る場所になりたかった。 「……あったまってくれたら、いいな」  さらりと撫でた大好きな赤い髪からは、シャンプーの香りがした。

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