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第二部 第二十三話 ケーキと喜ぶ顔

 今日は銀座で会食があった。凛は駅までの道をゆっくりと歩く。 「あー……疲れた」  箸を使えるようになったことで、会食に出る頻度もずいぶんと増えた。龍一は高齢だし、若頭の凛が出るのは当然だと言えるだろう。だがそれはつまり、悠の手料理が食べられる回数が減ってしまうということでもあった。高級中華はもちろんうまかったが、会食の場で料理の味だけに集中できるはずもない。狸親父との腹の探り合いでずいぶんと疲労が溜まった。 「さっさと帰ってユウちゃんと……」  風呂に入って癒されよう、と思った時だった。ふと目の前の重厚な扉が目に入る。扉の前にはメニューが置いてあって、どうやらケーキショップのようだった。 「……ケーキ買ったら、ユウちゃん喜ぶかな?」  彼は甘いものが大好きだ。自分でスコーンやクッキーを作ったりもする。ならきっとケーキも好きなはずだ。  店内は空調が効いていて涼しかった。ショーケースには宝石のようなケーキたちが並べられている。夜遅いせいか、全種類が残っているわけではないようだ。 「いらっしゃいませ」 「んー、どしよっかなあ」  ケーキはどれもうまそうだが、悠がどれが一番好きかの検討がつかない。 「おねーさん、残ってるので一番おすすめある? 甘いの好きな子にあげたいの」 「かしこまりました。甘いものがお好きならこちらのショコラをふんだんに使ったケーキはいかがでしょう? 濃厚なガナッシュが舌の上でとろけます」 「じゃそれいっこ。と……このショートケーキひとつお願い」 「かしこまりました。保冷剤はおつけいたしますか?」 「うん、おねがーい」  店員が箱詰めをしている間に会計を済ませる。そういえば昔、組長の誕生日ケーキを買いに行って、箱を振ってぐしゃぐしゃにしてしまったのを思い出した。 「大変お待たせいたしました」  店員からケーキを受け取って店を出る。今日は夏なのに少し風が冷たい。早く悠に温めてもらおうと、凛は箱を振らないように気をつけながら帰路についた。 「ユウちゃーん、ただいまぁー」  家に帰ると、悠がぱたぱたと走ってやってきた。 「おかえり、凛! 会合大丈夫だったか?」 「ん、まずまずってとこかな。それより、はい」  凛は悠にケーキの箱を差し出した。 「帰りに買ったんだ。ケーキ、好き?」 「……り、凛、これっ…………」  悠はふるふると震えている。もしかして嫌だっただろうか。 「これ、フィリップ・ド・メイのケーキじゃんかっ!」  彼の声は、感動で震えていた。 「え? あー……そんな名前だったの? よく知らないんだけど」 「名店中の名店だよっ! 銀座に店あるってのは知ってたけど……わあああっ!」  悠はそのまま小躍りでもしそうだ。よほどケーキが嬉しいのだろう。 「ヤバい、どうしよう、ええと、お茶! 紅茶淹れなくちゃ! あっ、風呂沸いてるから! ゆっくり浸かって!」 「わかったわかった、ユウちゃん落ち着いて」  大興奮の彼の頭を撫でて宥める。ケーキひとつでこんなに喜ぶなんて、可愛らしいにもほどがある。 「ユウちゃん風呂入った?」 「はあ、はあ……いや、まだだけど」 「じゃ一緒入ろ? で、風呂上がったらケーキ食おうよ」 「……うん!」  彼の満面の笑顔は、実際の年より幾分も幼く見えた。 「ちょっと濃い目に淹れるか……ああもう、昨日高めの紅茶買っておけば!」  風呂上がりの悠はぶつぶつと呟きながら紅茶を淹れている。 「ユーウーちゃーん? 真剣すぎ」 「だって凛! あのフィリップ・ド・メイだぞ!? ちゃんと茶淹れないと失礼になっちゃうだろ!」 「失礼って誰に対して?」 「ケーキとケーキ作ってくれた人にだよ!」  こんなに真剣な悠は初めて見た。あまりの真剣さにぷっと吹き出してしまう。  ──ケーキ一個でガチになりすぎ。マジでかわいーんだけど。 「よし、紅茶入った!」 「はーい、じゃオープンー」  凛は箱からショコラのケーキを取り出して、悠の目の前の皿に置いた。 「……うわああ…………!」  セレストブルーの瞳がキラキラと輝いている。なんでこんなにも可愛らしい表情ができるのだろうか。 「すげー……すげえ……! り、凛、これ食っていいのか……!?」 「そだよ。ユウちゃんに買ってきたんだよー」 「いただきますっ!」  悠はぱくっ! とケーキを口に含む。大きな目がいっぱいに開かれて、頬が緩んで。 「んーっ!」  顔が、うまいと語っていた。初めてご馳走を食べた子どものようだ。 「うまいの? よかったねえ」 「チョコが、パリパリのところと、とろっとしてるところがあって! 香りがふわーって!」 「うんうん、じゃこっちのショートケーキもどーぞ」  凛は自分の分のショートケーキを掬って、悠に食べさせた。 「んん!」 「うまい?」  こくこくこく、と首が取れるのではと思う程に悠が頷く。生クリームをひと掬いして食べると、確かに美味ではあったが、ここまで興奮するものだろうか。 「い、一日で食うのもったいなさすぎる……!」 「ケーキなんだからすぐ食わないと悪くなっちゃうでしょ」  凛は慎重になっている悠に、どんどんとケーキを食べさせる。  ケーキを全て食べ終わる頃には、悠は夢見心地でぼうっとしていた。 「すげーもん食った……ヤバい……幸せで死にそう……」 「ケーキひとつで大げさだなあ」 「だって本当にうまかったんだって!」  悠は興奮冷めやらぬといった様子で、ケーキがどれだけおいしかったかを語り出す。  なんだか、凛がおいしいと言った時に悠が喜ぶ理由がわかった気がした。 「来週新宿行くんだけどさ、またなんか買ってこようか。デパートとかの甘いお菓子」 「えっ!?」  悠は興奮でぶるぶると震えている。こうして見ると本当にウサギみたいだ。 「ら、来週も……?」 「そだよ。欲しいのあったら言って?」 「は、バチ当たらないかな……」 「当たんない当たんない」  悠は凛にぎゅうと抱きついてきた。心の底から、ひどく幸せそうな顔をして。 「ありがとう……凛……」 「んーん、これくらいなんでもないよ」 「っ、じゃあ、日曜に紅茶買いに行かないか!? ちょっといいやつ!」 「あはっ、いーねえ。デートだね」  悠はどこで買おうか、と店の検討をし始めた。凛はどこまでも愛らしいウサギを見つめて、組長の妻が好きだと言っていた紅茶のブランドを告げる。悠がそこは超高級じゃんか! と叫んだので、凛はケタケタと笑って悠を腕の中に優しく閉じ込めた。  

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