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第二章 第二十七話 友人との決別

 凜が牽制をした日から、克也は以前よりも悠を構うようになった。いいと断っても心配だから送っていくと言って家の近くまでついてきたり、あの男に何かされていないかと凜を疑ったりした。正直、毎日彼と顔を合わせるのにも疲れてきてしまっている。けれど強く言うこともできずに、悠は下手くそな笑顔でごまかすことしかできなかった。  そして、凜と克也が顔を合わせてから一週間が経ち、悠は克也の家に遊びに来ていた。家で課題の自主練をしようと言われて、断り切れなかったのだ。  克也の料理は洗練されていて、今すぐにでも店に出せそうなクオリティだった。ひとり暮らしの家には、低温調理機などの高級調理器具が揃っている。両親が店をやっていて、料理に関して全面的に支援をしてもらっているとのことだった。 「やっぱり悠はツメ甘いな。味ボケてんじゃん」 「……駄目、だったかな」 「駄目だな。素材の味が死んでるし」  克也は歯に衣着せずに意見を言う。それは彼が真剣に料理に向き合っているからだとわかっていても、作ったものを否定されてしまうのは悲しかった。  友人の言葉ひとつで傷つくのなら、悠は料理人に向いていないのかもしれない。  最近ずっと、ひとつの逃げ方を考えている。それは現実的で、悠の希望を一番に叶えられる方法だった。けれど克也に言ってもそれを認めはしないだろう。だが、悠が本当に作りたいのは────。 「ま、一回休憩しようぜ。コーヒー淹れるわ」 「うん、ありがとう」  キッチンを片づけてベッドに座る。すぐに克也が淹れたてのコーヒーを持ってきてくれた。 「コーヒー飲むの久しぶりだ」 「そうなのか?」 「家だと紅茶だから」  凜はコーヒーより紅茶派で、大容量のティーバッグが山のように置いてある。それをおやつと一緒にいただくのが休日の日課だった。 「……あのさ」 「うん?」 「なんであいつなんだ?」 「っ、ごほっ!」  急な質問に思わずむせてしまった。 「あ、あいつって……凜のこと?」 「だって、どうみてもヤバいやつだろ。まともな職業じゃないっての一目でわかった。失礼だし、チャラチャラしてるし」 「そ、それは……そう、だけど」 「他にも男も女もいっぱいいるだろ。なんであんなヤバそうなやつ選んだんだよ」 「なんで……って……」  だって、凜は。 「メシ、うまいって言ってくれたから……」 「は?」 「俺が作ったの、うまいって言ってくれたんだ……どうやって生きていいかわからなくなってた時に、そう言ってくれて、俺は救われたんだ」 「……それ、だけ?」 「きっかけはそれで、優しいところも好きだ。いつも俺のこと大切にしてくれて、俺が自分のこと雑に扱うのも許さないくらいで。それに、何があっても駆けつけて、守ってくれるところも」  悠は、凜の笑顔を思い出してふっと笑った。 「凜がいるから、今幸せなんだ」  コトリとマグカップを机に置く。克也は歯ぎしりをして、マグカップを机に叩きつけた。 「……ふざけんなよ、なんだよ、それ」 「……え?」 「俺だって悠とメシ作ってきただろ!? ていうか、俺の方がメシの話一緒にできるだろ!? あんな見るからヤクザの男にメシうまいって言われただけで、ホイホイついていったのかよ!?」 「か、克也……?」  どうして彼が声を荒げているのかわからない。大声に怯えていると、克也は両手首をがっと掴んできた。 「悠、お前騙されてんだよ! あんなやつと一緒にいたら大変なことになる、今すぐ縁切れ!」 「痛っ……克也、離……!」 「住むところなら俺の家があるだろ!? どうせあいつはメシか身体目当てだ! 悠のことなんとも思ってねえよ!」 「っ……離せよっ!」  克也は悠を解放しようとしない。じたばたと暴れると、悠よりも一回り大きな身体に押し倒された。ぞくり、と恐怖が全身を襲う。怖い、怖い、怖い。 「俺の方がお前のことわかってやれるんだから、俺にしろよ!」 「っ……!」  凜の予想は当たっていた。克也は悠に思慕の情を持っていた。けれど今はそんなことより、凜をひどく言われたことが嫌だった。 「凜のことっ……何も知らないくせに勝手なこと言うなよ!」  悠は初めて、克也に言い返した。 「凜は俺のこと、大事にしてくれるんだ! 傍にいてくれて、壊れものみたいに大切にしてくれて……!」 「だからそれが騙されてるって……!」 「騙されててもいいんだよっ! 俺は凜がいいんだ! 凜にだったら何されてもいい!」  だって、悠の生きる意味は凜だから。たとえ殺されたって恨みはしない。 「っ……お前、狂ってるだろ! そんなん奴隷じゃねーか!」 「うるさいっ! 克也にはわかんねえよ! 俺を救ってくれたのは凜なんだ、好きって言ってくれたのも、メシうまいって言ってくれたのもあいつなんだ! お前じゃない!」  悠は必死にもがいて、克也の拘束を解こうとする。 「俺だって、ずっとお前のメシ食ってきただろ!?」 「お前が一回でも俺のメシうまいって言ったことあったかよ!?」 「それは……だって指摘しないと上達しないだろうが!」 「凜はうまいって言ってくれたんだ! 俺のメシがいいって、毎日食いたいって言ってくれたんだ! 借金まみれになった時に救ってくれたのもあいつだ! 克也が人生終わりかけてた俺に何かしてくれたかよ!?」  そうだ、凜は悠の全てを拾い上げてくれた。気まぐれで始まったとしても、それは確かに救いだった。 「凜のところに帰る! 離せよっ!」  必死に克也の身体を押すが、体格差があってびくともしない。 「なんでだよ、俺だってずっと……!」  克也が顔を近づけてきた、その瞬間。  アパートのドアが、大きな音を立てて吹っ飛んだ。 「はぁーい、そこまでー」  呑気な声で現れたのは、赤髪の悠だけのヒーローだった。 「凜っ!」 「心配んなって来ちゃった。うわあ押し倒すとかヤバいね。今すぐユウちゃん離してくんない?」 「な、な……!」  放心状態の克也を押し退けて、凜の元へ駆ける。彼にぎゅうと抱きつくと、優しい体温が悠を包んでくれた。 「怖かったねえ、来るの遅れてごめんね?」 「凜、りんっ……!」 「よしよし、もう大丈夫だから」  凜が額にひとつキスを落としてくれる。誰よりも大好きな人の口づけは、友達に押し倒された恐怖を和らげてくれた。  凜は悠を抱き締めながら、克也に視線を向ける。 「嫌がってる子押し倒すなんて紳士じゃないなあ。無理やり襲うつもりだったの?」 「っ……! 襲う、なんて」 「まどーでもいいや。ユウちゃん怖がらせたケジメは取ってもらわないと」 「あんた悠を騙してんだろ!? メシうまいとか言って、悠をたぶらかしてんだ! そんなやつが彼氏気取ってんじゃねえ!」 「あはは、よく吠えるねえ」  凜は、すっと目を細めた。 「イキがるなよ、ガキ」  その一言で、辺りの空気が一気に冷えた。凛が本気で怒っているのが分かる。 「ひっ……!」  克也が後ずさる。殺気を受けたのなんて初めてなのだろう。 「俺はユウちゃんのヒーローなんだよ。この子に手出すやつは殺すって決めてるんだ」  凜は悠から離れて、克也にゆっくりと近づく。 「これでも、本気で惚れてるんだよね」  そして、克也の頭を机に叩きつけた。コーヒーが零れて、机を汚していく。 「がっ……!」 「ユウちゃんの友達だから一応手加減はしてあげる。腕一本、いっとこうか」 「ひ、やめ、やめ……!」 「凜っ! そんなことしなくていいからっ!」  克也を痛めつけて欲しいわけじゃない。悠は必死に叫んだ。 「えーでもさあ、こいつユウちゃん襲おうとしたんだよ? 許せなくない? それにユウちゃんのメシつまんないとか言うし」 「やめてくれ、頼むからっ……!」  取り押さえられた克也はぶるぶると震えている。料理が好きな彼の腕を折るのだけは見過ごせなかった。 「……ま、ユウちゃんがそこまで言うなら」  凜は克也を解放して蹴り飛ばす。彼の大きな体が壁に叩きつけられた。そして悠を再び抱き締めて、姫抱きをして瞼に口づけを落とす。 「今回は見逃してあげるよ。でも二度とユウちゃんに近づかないでね? 次は腕使えなくしちゃうから」 「っ……っ……!」 「じゃ、ユウちゃん帰ろっか」  凜は悠を抱えたまま、ドアの壊れた玄関へと向かう。 「凜、ちょっと待ってくれ」 「ん? なぁに?」 「克也、ごめん……沢山悩んだけど、やっぱり俺にはフレンチ向いてないみたいだ。俺は、普通の家庭料理が作りたい」 「……なんだよ、それ……」 「だから俺、夏休み明けたら調理師コースに移るよ。……家庭料理の腕磨いて、何ができるか探してみたい」 「っ……! フレンチから逃げるのかよ!?」 「元々、父さんに食わせてやりたいって思ってフレンチ選んだから……父さんがいなくなって、フレンチにこだわる理由ももうないんだ」  克也の言う通り、逃げなのかもしれない。けれど、目標もないまま辛い日々を送ることが正しいとも思えなかった。 「仲良くしてくれたの、嬉しかった。……ありがとう。ごめんな」 「あーあ、完全にフラれちゃったねえ、チワワくん」  克也はその場から動けないでいる。悠は凜に縋って、彼から視線を逸らした。 「もういい?」 「……うん」 「おっけー、じゃ帰ろ」  凜は楽しげに一歩を歩き出す。失恋をして友人をも失った男は、静かに涙を流す事しかできなかった。

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