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元服1

 そして3日後。霞若は山を降りた。その姿を博嗣が見ていたことを霞若は知らない。  山を降りた日、霞若は泣かなかった。泣きそうにはなったけれど、父と母の前では貴族の子供として凜として、文を習い、礼を学び、元服の準備を整えた。  右大臣、四条道隆の嫡男として恥ずかしくないよう振る舞うが、心は山に置き去りのままだ。  夢で会えると、博嗣が言った。その言葉だけを頼りに日中を過ごした。夢で会えることが唯一の安らぎ。そして気づいたのだ。これは恋だった、と。  夜。寝支度を整え目を閉じると、昼間の忙しさからか霞若はすぐに眠りについた。  眠りにつくと、懐かしい風が霞若の頬を撫でる。これは、山の風だ。  目を開けると、そこはいつもの山だった。そして探すまでもなく、いつもの岩に博嗣がいた。 「これは夢でしょうか、博嗣さま」  そう問うけれど博嗣は何も答えない。何も言わずに、月の光の中、優しく髪を撫でてくれた。その手があまりにも優しくて切ない。 「夢で会えると、そう言ったであろう」 「はい。お会いできて良かった」 「お前がいないと、山は寂しいな」  聞こえるか聞こえないかというくらい小さな声で博嗣が言う。 「博嗣さま……」 「……夢でも良い。お前が来てくれるのならば、それで十分だ」  それは博嗣が初めて言う本音だった。  夢の中は自由だ。誰にも見られることはない。手を取り合い、言葉なく頬を寄せ、ただ寄り添う。それだけで幸せだった。  霞若は博嗣の肩にひっそりと額を寄せて目を閉じた。博嗣の体温は夢の中とは思えないほど温かかった。 「……元服まで、あと5日程だと父が申しておりました」 「そうか。お前は、もう子ではなくなるのだな」 「子でなくなるのに、心はまだ、博嗣さまのお側にいたいと思ってしまいます」 「それは、いけないことだな」  博嗣が小さく言う。それでも静かな夢の中ではしっかりと聞こえてしまう。 「いけないことですか? いいえ。いけないと思いたくないのです」  霞若のその言葉に、博嗣はじっと目を見つめる。  夢の中の月は優しく、柔らかく2人を包み込む。  風がまた山の香を運んできた。博嗣は霞若の頬に触れ、その目を見つめる。 「霞若。お前は都で、人として生きる者だ。私とは違う。それでも、私を思ってくれるのか?」 「思っております。もう、引き返せないほどに……」  そう言う霞若の瞳には切なげに問う博嗣だけが映っていた。それを見たとき、博嗣は静かに息を吐き、小さく微笑んだ。切なさと愛しさが滲むその微笑みに、胸が苦しくなる。でも、目を離すことはできなかった。 「ならば、私は夜ごとここでお前を待とう。お前が来ると信じて」 「必ず来ます。必ず……」 「待っているよ、霞若。……霞若と呼べるのも後少しなのだな」 「はい。でも、名がなんとなろうと、私は私です。あなたを想う、ただの私です」 「霞若……」  そして2人は、そっと唇を重ねた。  儚く、けれど永遠に覚えていたいほどに優しい、初めての口づけだった。

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