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元服3

 元服の日の朝。霞若は静かに目を覚ました。夢だったというのに、博嗣の温もりが感じられたようで、今もその温もりが忘れられない。  そして邸には静かな緊張が漂っている。今日、霞若は元服を迎える。大人として最初の日。父、四条道隆の嫡男として、初めて人の前に”男”として立つ日。  女房たちに身を整えられながら、鏡に映る自らの姿を見つめていた。白い狩衣に重ねられた薄紫の単衣、そして腰には初めての石帯。  その薄紫が、あの日山で摘んだ花を思い出させる。  袖を通しながらも、心はどこか遠く、山の笛の音を探していた。 「笛の音が聞こえればいいのに……」  そう小さく呟いた言葉は、女房たちに聞かれることなく、春の風に消えて行った。  加冠の儀は、父、道隆の手により執り行われた。 「霞若。よくここまで育ったな。もう呼吸が苦しくなることもあるまい」  父、道隆は静かに言いながら、黒漆の冠を霞若の頭に載せる。厳かな重み。額に触れた時に思った。  もう、子供ではいられないのだ。好むと好まざると関係なく。  加冠とともに、霞若は童名を捨て、新たな|諱《いみな》を授かった。”真夏”。父から授かった名である。だが、夢の中では、博嗣には、やはり霞若のままでいたいと思った。  披露の宴では、親族、公家たちが集い、楽が奏でられ、華やかな祝辞が飛び交う。だが、霞若の、いや、真夏の心は杯の香にも、膳の味にも染まらない。  ――博嗣さまは、今ごろ何をしておいでだろう  懐には、博嗣の母の形見だというあの龍笛。誰にも見つからぬように仕込んだ。あの音を決して忘れぬように。いや、博嗣のことを忘れぬように。  そして楽を聞いて思う。博嗣さまの笛の方が上手いのに。そんなことは言えないけれど。  夜、帳が下ろされた後。真夏は1人、寝所の窓を開けて月を眺めた。春の月は静かで、どこか哀しい。  笛を取りだし、そっと唇を添えてみる。まだ思うようには吹けない。けれど、微かな風が通る。  ――風よ、博嗣さまのもとへ。  そうして横になり、目を閉じた。  夢の中、月の差す岩の上に、変わらぬ姿の博嗣が待っていた。 「元服おめでとう。名をなんという?」 「真夏、と申します。でも、博嗣さまには、霞若と……」 「その気持ちもわかるが、もう真夏だよ。大人になったのだから。貴族の男として元服したのだから」 「はい……」  霞若とは呼んで貰えない。それでも、博嗣に呼ばれるのはなんだか特別な気がした。もう、童ではないのだから。霞若のままではいられないのは当然だ。 「私が人であれば、祝いに駆けつけたのにな」 「いいえ。今、こうして会っていただけている。それだけで十分です。昼間、散々、祝辞を言われましたが、博嗣さまに言われるのが一番哀しく、でも嬉しい」 「そうか」 「はい」  博嗣は、真夏の頬に指先でそっと触れる。まるで壊れ物に触れるように優しく。 「真夏。立派な大人になれ」 「……はい」 「私はいつでも真夏のことを見ている。だから、寂しがるな」 「見ていて、いただけるのですか?」 「ああ」 「わかりました。博嗣さまが見ていてくださるのであれば、頑張ります」 「ああ」  2人の間に、静かに風が吹いた。

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