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元服4

 薄紅の花が散った都に初夏の匂いが忍び寄る。今日は初めて朝廷に参内する日。右大臣、四条道隆の嫡男として元服を済ませた真夏が、ついに初めて御所の敷居を跨ぐ日だった。  夜明け前から、邸内は慌ただしく動いていた。装束を整える女房たちの手は丁寧で、しかし真夏の心は衣の重みよりもずっと重たい何かを抱えていた。  この身は、もう霞若ではなく、”真夏”なのだ。山にいた、あの霞若はもういない。  牛車に乗り、朝の静けさに包まれた道を進む。薄曇りの空の下、朱の御門が見えてくる。鼓動が耳の奥で鳴った。まるで龍笛の音が遠くから聞こえてくるようだった。    ――博嗣さま……  懐に忍ばせた笛がわずかに熱を持つ。博嗣から授かったあの笛。指を添えてくれた大きな手。優しい声。そして、夢で交わした言葉。それらが真夏を支えていた。  清涼殿に進み、父の後ろに続いて御前へ進む。漆黒の束帯は重く、冠の重さは責任そのものだった。  拝礼の作法は覚えている。深く、静かに頭を下げる。けれど、心はあの山の岩の上にあった。博嗣が座っていた場所。風が桜の花びらを舞わせていたあの景色。  見ていて欲しいのは他の誰でもない博嗣だった。  天皇陛下の前で名を呼ばれる。「四条真夏」父より授けられた新たな名。その響きに、胸が締め付けられる。  霞若という名を呼んで貰えたから好きになれたのに……。それでは、真夏と呼んで貰えたら好きになれるだろうか。思わず泣きそうになる。  それでも顔は上げねばならない。声を出し、礼を尽くし、男として立たねばならない。  礼が終わり、御所を出るとき、ふと吹いた風が額にかかった髪を揺らした。その風が、どこか山の匂いを含んで感じた。  夢で会えますように。そう願いながら、真夏は牛車に乗った。再び父の邸に戻ってゆく道。けれど、心は山の方へと向かっていた。  帰路の牛車の中、真夏は薄く開けた御簾の隙間から、静かに流れる都の街並みを見ていた。  左右に流れて行く、人々の暮らし。朝露に濡れた若葉。香を焚いたような初夏の空気。全てが美しく整えられているけれど、どこか遠い。まるで自分がその景色の一部になりきれずに、ただ外から眺めているような感じがした。 「真夏さま。お疲れでは?」  女房の1人が声を掛けてきた。けれど真夏は笑みを浮かべて、首を横に振る。 「大丈夫だよ。少し、考え事をしていただけだ」  胸の内では、考え事などという言葉では済まぬ思いが渦巻いていた。元服は、父の期待に応えるためでもあった。  名を継ぎ、家を背負う者としての責務は理解している。けれど、名が変わることが、これほど霞若という存在を遠ざけていくのかと思い知る。  あの山で過ごした日々は、決して夢ではなかった。風に舞う花。博嗣の吹く、笛の音。その手の温もり。そして、お前が来てくれるならば、それで十分と言った声。あの言葉だけが、自分を繋ぎ止めている。  ふと、懐に手を忍ばせ、笛に触れる。冷たく、でもどこか体温を帯びていた。手のひらに重なるそれは、ただの楽器ではない。2人を繋ぐ絆のようだった。  牛車が門を越える音。邸の女たちが迎える気配がする。真夏はゆっくりと体を起こし、襟元を正した。  もう、霞若ではない。博嗣に見せたいのは、こんな偽りの姿ではなく、本当の自分だ。  邸に戻っても山に向ける祈りは変わらない。夜を待とう。夢の中で、あの岩で会えるように……。 「博嗣さま……」 「戻って来たな」  言葉は少なくても、2人の間には静かな安らぎが満ちていた。夢の中で寄り添う。この想いが夢の中でも消えぬようにと願いながら。

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