16 / 99
元服8
日ごとに太陽は高くなり、都は夏の気配を孕んでいた。
元服を終えた真夏は、朝、目を覚ますと、まずは文に取りかかる。御簾の向こう、庭の木々を渡る風の音を聞きながら、静かに筆を取る。その筆先は整っていても、心はしばしば別の場所へと彷徨ってしまう。
――博嗣さまは、この空をどこで見ているだろう。
そんなことを考えてしまう。
ふと筆が止まり、文机の脇に置いた笛に目をやる。博嗣の母の形見であり、今は真夏の宝物となった龍笛だ。
まだ人の目がないうちに、とそっと手に取り、息を通してみる。音は微かに震え、すぐに掠れる。
「まだ上手く吹けない。博嗣さまのように吹けるようになるのはいつのことだろう」
苦笑して笛を置き、装束の支度にかかる。夏の装束は薄手にはなったけれど、重ねは重く、束帯の衿に手をかける度に、肩の重さを思い知る。これが”男”として生きること。霞若ではなく、真夏としての務め。
昼には父の邸にて人々と対面し、和歌の会や漢詩の勉強にも呼ばれる。誰もが真夏を「立派な右大臣家の若君」として扱う。けれど、笑顔の下で、心はどこか浮いている。話し声は遠く、岩の上の博嗣が揺れる。
夜になると、夢に賭けるように床に就く。けれど、毎日会えるわけではない。そういう夜はただ、月を見て過ごす。夢でも会えない夜は、夜が長く感じた。
「また、会いたい……」
そう呟く声が闇に溶けて行く。
夕暮れの太陽が斜めに庭を照らす頃、真夏は父の邸の西の|対屋《たいのや》に足を運んだ。今日は|上達部《かんだちめ》を数人招いた、私的な和歌会が催される日だ。
元服を済ませたばかりの若君として歌の席に加わるのはこれが初めてだった。
香を焚きしめた座敷には、既に几帳を隔てて数名の公達が集まっていた。誰もが洗練された直衣を身にまとい、筆と紙を手にしている。夏の題は「残春」だ。過ぎゆく春を惜しむ心を詠むことになっていた。
真夏も、用意された唐紙を前に膝を正す。硯に墨を擦りながら、ふと山の桜が脳裏に浮かんだ。博嗣と見た桜。あの風、あの花。
筆が自然に動いた。頭で考えるより先に、心が言葉を選んでいた。
『春の風 花をはらはら散らしつつ 今も心を 山にとどむる』
花を散らしながら吹き抜けた春の風。それは過ぎても心はまだあの山に残されたままだ。
歌を発表する順番が巡ってくる。真夏の詠んだ歌が詠み上げられると、隣にいた年中の中納言がわずかに目を細めた。
「風流なれど、どこか悲しみが深い歌よのう」
誰もがほのかに頷きあう中、真夏は静かに頭を下げた。褒め言葉は嬉しいはずなのに、胸が痛いのは何故なのか。
歌は心を偽れない。だからこそ、貴族のたしなみである。
真夏に歌を、と望むなら、悲しい歌しか歌えない。山に心を置いた歌しか歌えない。そんなのを貴族のたしなみと言っていいのかはわからないけれど。それでも、今は他の歌を歌えない。
斜めに部屋を照らしていた夕陽が沈み、薄い月が見えるようになっても誰も席を立たなかった。そんなに和歌会は楽しいだろうか。真夏にはわからない。それよりも部屋に戻って龍笛を吹きたい。まだ上手くは吹けないけれど、博嗣の吹く笛の音に音を近づけたいと思う。そんなのはいつ来るかもわからないけれど。
――博嗣さま……
ともだちにシェアしよう!

