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別離5
「真夏っ!」
陰陽寮たちの後ろにいた兼親が真夏の名を叫ぶ。兼親は真夏の様子がおかしくて、真夏のあとをつけてきていたのだ。
「なんで真夏を! 真夏は鬼じゃない。人間だ! 四条右大臣の嫡子だ」
その言葉に陰陽寮も射手も動きを止める。
そして、博嗣の腕の中で真夏の体は徐々に重さを増していく。温もりが少しずつ、指の間からこぼれ落ちていくようだった。
「真夏……なぜ、そこまで」
問いは答えを待たず、唇の端から漏れるようにこぼれた。だが、その胸の奥には、もう答えはあった。
――この命を賭してでも、あなたに生きていて欲しい。
それが、真夏が最後に残した真の願いだった。
博嗣は、真夏の頬に額を触れるようにし、そっと目を閉じた。
「ありがとう、真夏。お前の命。決して無駄にはしない」
再び顔をあげた時、その目には迷いはなかった。
博嗣は、真夏の体を、あの、2人がいつも会っていた岩陰にそっと横たえ、狩衣の石帯をきちんと整えてやった。そして、自分の重ね着ていた上の衣を脱ぎ、そっと上にかけてやる。その衣には真夏の好きな沈香の香りが染みこんでいた。
「この者は鬼に非ず。人よりもなお、人の心を持っていた」
射手たちに向かってそう告げた博嗣の声は、静かで、だが揺るぎなかった。
「この命が|斃《たお》れたことを、どうか朝廷に伝えよ。この者が守ろうとしたのは、我らの命のひとつ。鬼であれ人であれ、命には等しく価値があると。そして右大臣、四条道隆に伝えよ。お主の息子、真夏は立派な最期だった、と」
そう言うと博嗣は背を向け歩き出す。
射手たちは誰1人として動けなかった。矢を射た者は膝をつき、陰陽寮の武将たちでさえも追うことはできず、ただその場に立ち尽くしていた。
兼親だけが、真夏のもとに駆け寄り、声をあげて泣いた。その声はとても悲しい声だった。
射手たちも陰陽寮の武将たちもその声を耳にして、心の中に何かが重くのしかかった。
そして博嗣は、その泣き声に一瞬だけ動きを止め、最後にもう一度真夏の顔を見た。
けれど、すぐに山の奥を振り返る。そこは、鬼たちが潜み生きてきた、隠れ里へと通じる道がある。
「私が行かねばならぬ。真夏の死を鬼たちに伝えるために。彼が命にかえてでも守ろうとしたその思いを、今こそ鬼たちに届けねばならぬ。それは私にしか出来ぬこと」
そう言い残して、博嗣は振り返ることなく山奥へと歩を進めた。真夏の命と思いを胸に刻んで。
その目は、先ほどのような生を諦めた色はなかった。自分の命にかえてでも博嗣を守ろうとした真夏の命を無駄にはしない、という強い気持ちだけがあった。
霞の中にその背が次第に溶けていく。
鳥が鳴き、風がまた夏の香りを運んでくる。
それは、ひとつの季節の終わりと、ひとつの運命の始まりを告げる風だった。
森の奥深く。鬼たちが身を潜めている場所に博嗣は来た。そして、若い鬼たちの前に立つと口を開いた。
「人間の貴族が、私を助けようとひとつの命を落とした」
その言葉に鬼たちがざわめく。
「私と山で出会い、名を交わし、言葉を重ねた。私が鬼であることを恐れず、ひとりの”人”として私を見てくれた。だから私は、彼の命に触れた時、初めて本当の”人の心”を知った」
誰かが小さく息を呑んだ。博嗣は続ける。
「彼が命を懸けて伝えたかったのは、人と鬼は生まれが異なるだけで、ひとつの命であることに変わりはない。だから互いに手を取り合うことができる。私はそれを否定しない」
若い鬼は涙を流していた。
「我らは山に生きる。隠れてでも、生きる。もし、”共にある未来”を語る資格があるとするなら、それは血を流した者だけだ。ならば私はその血の名にかけて言う。争いを選ぶな。復習に生きるな。お前たちがもし自らの命を未来に繋げたいと願うのなら、真夏のように憎しみではなく、手を差し伸べる強さを持て」
風が吹き抜ける。木々がざわめき、どこか遠くで、淡く甘い香りが漂った気がした。まるで誰かが笑っているような、そんな気がした。
博嗣は空を仰ぎ、微かに目を細めた。
「私は、鬼の帝としてこの山に生きる。だが、彼が命を賭けて信じた未来を見る」
遠く、岩陰に横たえてきた真夏を思う。もう会えない。それなら約束した来世で会おう。それまで、いつまででも待つ、と博嗣は胸の中で誓った。
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